今回は、田中京之介さんの思い出を語りたい。日本情報処理開発協会(JIPDEC)の参与時代に知り合い、親しくつき合うようになった。BUSSINESSコンピュータニュース(現・週刊BCN)を最初に高く評価してくれた人であり、創刊3年目の1984年には大きな仕事をいただいた。昨 2006年、奇しくもJIPDECの「情報化白書」をわが社で刊行することになったが、田中さんが陰で導いてくれたのだと信じている。

 「千人回峰」は、比叡山の峰々を千日かけて歩き回り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借しました。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れることで悟りを開きたいと願い、この連載を始めました。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
株式会社BCN 社長 奥田喜久男
 
<1000分の第2回>

※編注:文中の企業名は敬称を省略しました。
 

JIPDEC時代に知り合う

 交際が深まったのは、田中さんがJIPDECの参与として調査部のボスを務めておられた時代だ。私自身、JIPDECには1975年から出入りしていた。ここの資料室は充実しており、一般にも開放されていたので、調べたいことがあるたびに通った。そのついでに調査部に顔を出し、田中さんと知り合ったのである。当時、鈴木茂樹さん(現・JIPDEC常務理事)、宗像徳英さん(現・日本ケイデンス・デザイン・システムズ人事本部本部長)なども同部に在籍していて、いろいろと教えていただいた。

 田中さんとは仕事の話はあまりせず、雑談が多かった。何かの折に、「私、変わった茶碗が好きなんです」と口にしたら、「奥田君、キミ、窯変(曜変)って知ってるか」という話になった。日本の三大窯変はどこにあるか知ってる?と問われ、知らないと答えると、関連する資料をわざわざコピーしてくれた。田中さんと私は相通じる趣味を持っていることが分かり、それから急速に近しくなった。
 

坪内逍遙邸に居を構える

 田中さんの自宅は、三度ほど食事に呼ばれて訪ねた。本郷の炭団坂の上にあり、旧・坪内逍遙邸だったという由緒ある屋敷に住んでおられた(いまは、日立本郷ビルになっている)。奥さんの実家なのだそうだ。

 茶室が二つもあった。田中さんは、元々は法律書版元・有斐閣の編集者で、ジュリストや小六法を企画し大当たりさせた人だ。会社を儲けさせてくれたお礼だと言って、同社の社長が寄贈してくれた茶室だという。

 有斐閣の時代に、稲葉秀三氏の知遇を得て、その縁でJIPDECに入ったとのことだった。稲葉氏は、産経新聞の社長を務めた人物である。社長を辞めた後は通産省の外郭団体である産業経済研究所の理事長などを務め、コンピュータ業界の発展に尽力した。

 田中邸に最初に呼ばれたのは、1986年の秋口で、夫人の手料理を食べさせてやるとのことだった。ところが、どうしても抜けられない用が生じ、約束より2時間も遅れてしまった。奥さんには大変叱られたが、田中さんは、まあいいじゃないか、となだめ役に回ってくれた。後で聞いたところでは、田中さんは何度も何度も時計を確かめたり、窓から外を覗いていたりで、そわそわしながら待っておられたそうだ。
 

切り抜きは最大の財産


 部屋の中に鉄製のドアがあったので、「あれっ、この家にふさわしくないですね」と感想を述べたら、「いや、俺の最大の財産、切り抜き帳を入れているんだ」とのことだった。実は私もせっせと切り抜きしていますと言って、見せてもらった。キャビネットの中にびっしりと“お宝”が詰まっている。

 田中さんの持論は、興味を感じた時、気がついた時に切り抜き、それを時系列で整理しておくのが一番だとのことだった。

 「データベースというのは、量がたまればたまるほど威力を発揮する。何か調べたいテーマが発生したら、その時々に引っ張り出して確認していけばいい」と。
 

ニューヨークタイムズも認めた大きな仕事

 1984年、田中さんから大きな仕事が回ってきた。日本のパソコン市場の現状を海外に知らせたいので、原稿を書いてほしいとのことだった。

 コンピュータ・ニュース社(現・BCN)の創業から3年目、それなりに業界から評価されはじめてはいたが、こんな大きな仕事は初めてだ。もう無我夢中。20日くらいで書き下ろした。その原稿を宗方さん、鈴木茂樹さんたちが英訳してくれて、322頁建ての「Personal Computer Market In Japan」を刊行した。

 これには後日談があって、このレポートを読んだニューヨークタイムズのアンドリュー・ボラック記者が私を訪ねてきて、私の名前が同紙に乗るのだが、これは次回に自慢させていただこう。
 

「女房のガード役を頼む」

 田中さんが亡くなったは、1990年12月29日だが、その1週間ほど前に呼ばれて、訪ねていった。白血病を病んでいて、「俺はもう長くない。遺言と思って聞いてくれ」と言われた。前置きとして「奥田君、キミは善人にも悪人にもなれる人だが、悪人にはなるなよ」と釘をさされた。「女房をひとりで残していくことになる。心配でならないので、ガード役を頼む」というのが依頼の内容だった。

 私は、「(私の会社は)本郷からは動きません。安心してください」と答えた。

 12月29日、亡くなられたと聞いて飛んでいくと、呼ばれていたのは鈴木茂樹さんと私だけだった。「葬儀はするな、棺桶には花輪を一輪だけ入れればいい」というのが遺言だったそうだ。鈴木さんは、私が田中さんとそれほど深くつき合っているとは知らなかったようで、最初は怪訝な顔をしていたが、後で「田中さんの心の琴線に触れたんだ」と言ってくれた。

 本当に年齢を超えて触れ合えた人だった。

 実はこの年の12月15日には、後ろから支えてくれていた日比野正久さん(当社の監査役。経理面の師でもあった)も他界している。1991年の正月は、相次いで二人の師を亡くし、茫然自失としながらも、経営のことを本気で考えねばと覚悟を新たにしたことをよく憶えている。(BCN社長・奥田喜久男)