梶山さんは大野侚郎先生の紹介で知った。「データベースに生涯を捧げると言ってる面白い男がいる」とのことだった。最初に面会したのは、梶山さん言うところの「BCNがまだワラ半紙だった頃」だから、この人とも長いつき合いだ。カード型データベースDATABOXで基礎を築き、生産管理システムという畑違いの分野に出ていった。1990年代、「DATABOXで稼いだ資金が尽きるのが先か、R-PiCSを軌道に乗せるのが先か」という瀬戸際の苦境を経て、生産管理システムのリーダー企業になった。【取材:2007年9月27日、リード・レックス本社にて】

 「千人回峰」は、比叡山の峰々を千日かけて歩き回り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借しました。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れることで悟りを開きたいと願い、この連載を始めました。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
株式会社BCN 社長 奥田喜久男
 
<1000分の第17回>

※編注:文中の企業名は敬称を省略しました。
 

経済学部出身ながらSEに

 奥田 社会人のスタートは日本ユニバックだったんですね。

 梶山 大学では経済学部で計量経済学を学びましたが、コンピュータに触った経験はありません。ただ、コンピュータはこれから発展する産業だと思い、日本ユニバックに入社して、職種はSEを選びました。SEというのは新しい職種だし、わかっている奴は少ない。ちょっと勉強すれば、人に負けることはないだろうと思ったんです。

SEの仕事というのはマシンの販売に付随して発生します。最初に派遣されたトヨタでは、日本初のタイムシェアリングシステム、次に行ったIHI(石川島播磨重工)ではデータベースを使った生産管理システムを開発しました。この生産管理システムは、当時注目を集めまして、上司からお前はデータベースの専門家になれといわれて、米国のデータベースの最新情報を翻訳して関係部署に流すというような仕事をやり、自分ではいっぱしのデータベースの専門家になった気でいました。

 ところが、とんでもないことがわかったんです。
 

米国で失意のどん底を経験、自分の居場所も発見

 奥田 ほほう、どんなことですか。

 梶山 71年から72年にかけて米国のベル研究所に研修に行かされました。そこには、すごいSEがごろごろいるんです。当時のベル研は、電話加入者に対するサービスアップの研究を続けていました。SEたちは自分でイメージを描き、それに向かってクリエイテイブな研究を行っている。そうした彼らの言うことが、私にはさっぱり分からないんです。最初は英語力がないからだろうと思ってたんですが、どうもそうじゃない。

 それまで知らなかった世界ということもあったと思いますけど、彼らの言う意味も価値もわからない。会う人、会う人そうなんです。

 日々落ち込んでいきまして、俺にはSEの天分が欠けているのか、技術者として生きていくのは無理なのかと思うようになっていきました。今考えれば、ベル研には世界でもトップクラスの研究者たちが集まっていたわけですから、そう落胆することはなかったんでしょう。けれども、当時は若かったですから、一途にSE失格かと思いこみ、悲しく、つらい思いで一杯でした。

 奥田 何歳の頃だったんですか。

 梶山 28歳ですね。じつは、米国でもう一つの転機を経験するんです。

 ベル研の後、ユニバック本社に回った時のことです。データベースの部隊で研修を受けた際に、当時の米国では有名なマーボ・ベリスというSEがリーダーを務めていました。彼の言うことは私にはよくわかる。ところが、部員たちは分からないと言う。メンバーは50人くらいいたのですが、誰も理解できないって。それで私に、インタープリターとして翻訳して彼らに説明するという役回りが回ってきました。

 この経験によって、自分の才能というか、居場所はこの辺にあるのかなと思うようになりました。天才のインタープリターですね。

 奥田 リード・レックスの創業は1974年でしたね。技術者として生きていけないなら、独立するか、と考えたわけですか。

 梶山 ええ、ベル研ショックが独立の引き金になったことは確かですね。

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