牧さんに初めて会ったのは、1981年にP-ROMライターを発売した時で、名古屋の自宅兼工場を訪ねた。以来、その発想力、行動力には圧倒され続けてきた。現在は海外市場の開拓に全力を上げている最中だが、海外に出ていかない限り日本企業に大きな未来はないのだから、ぜひ成功させてもらいたいものだ。久しぶりに会って、「この人なら大丈夫だな」と改めて感じた。【取材:2007年11月30日、バッファロー東京支店にて】

 「千人回峰」は、比叡山の峰々を千日かけて歩き回り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借しました。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れることで悟りを開きたいと願い、この連載を始めました。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
株式会社BCN 社長 奥田喜久男
 
<1000分の第19回>

※編注:文中の企業名は敬称を省略しました。
 

アルバイトのはずが、そのまま就職

 奥田 牧さんて、早稲田大学では応用物理学を専攻、大学院では半導体の表面物性を研究していたんですよね。普通なら半導体業界に進むのでは?

 牧 私のいた研究室は、半導体業界ではそれなりに名前が通っていましたから、通常なら引く手あまたで、行きたい企業に就職できたはずなんです。ところが、私が大学院を卒業した1973年という年は、トランジスタ不況の真っ只中で、半導体業界からの求人はまったくありませんでした。

 だけど私、この頃にはオーディオにはまっていたことや、結婚したら名古屋に帰らねばならないことなどから、多分、大手の半導体メーカーには就職しなかったと思います。それにしても、人生の岐路って不思議だなと思うことがあります。

 奥田 そうそう、オーディオに入れ込んでいたんですってね。後のことですが、「メルコの牧さんてあの牧さんなの?」って尋ねる人に会ったことがあるんです。なんで?と聞くと、牧さんがラジオ雑誌に連載していたオーディオに関する先鋭的な論文、楽しみで楽しみで、次の号が出るのを首を長くして待っていたというんですよ。

 牧 大学院生の頃、そんな論文書いていたことがありますね。じつは、大学院生の頃は、秋葉原にあったジムテックというオーディオメーカーでアルバイトしていたんです。ラジオセンターのオーナーが趣味を兼ねてやってたんですが、世界で一番いいアンプ作ってくれとおだてられて、その気になって設計に没頭しました。

 ところが、院の卒業間近になっても設計が終わらない。3月のある日、社長に呼ばれて、すでに開発費を何百万円かつぎ込んでいるんだから、卒業までには何とかしてくれるんだろうな、と念押しされてしまいまして…。それで、開発が終わらなければ責任が取れないと思ってジムテックに入ることにしたんです。じつは、別の会社に就職が決まっていたんですよ。エヌエフ回路設計ブロックという計測器のメーカーで、弱電に興味がある人間にとっては、非常に魅力的な会社でした。
 

競争と協調の大切さ学ぶ

 奥田 そんなことがあったんですか。確かに人生の岐路って不思議ですね。

 牧 小さなメーカーでしたが、その社長がいろいろな人を紹介してくれて、秋葉原の裏がよくわかりましたよ。秋葉原の電気街っていうのは、競争と協調のバランスがうまく取れているんですね。

 例えば、これは私の創作ストーリーですが、店主同士が麻雀をやっていて、「お前さんのとこ、ソニーのテレビの安売りやってるな、ちょっと安すぎるぞ」「悪い、悪い。押し込まれちゃってさ、まだ在庫残ってるんだ」「今度の土日までは我慢するけど、その先はダメだぞ」ってというような会話が交わされていたと思うんです。競争しながら、協調すべきところは協調する、これってものすごく大事なことですよね。

 これはメルコ創業後の話なんですが、名古屋の大須というところは、全国一の安売りの街として知られていました。隣同士のつき合いがなく、競争だけが先行していたためです。それで、ある店の店長に秋葉原の例を紹介して、仲立ち、つなぎ役をやったらと勧めたことがあります。その店長がいろいろ動いて、できるだけみんなが会える機会を作っていった結果、気心が知れてきて、協調の機運も生まれてきました。

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