高校に入るまで自分が生まれ育った島を出たことがなかったという西岡さんだが、お話をうかがっていると、とても都会的かつ先進的なお人柄だ。おそらく、戦前、雲仙で外国人相手に写真場を経営していたハイカラな父君の影響が大きいのだろう。「貧乏だったが、苦労はしていない」と語る西岡さんは、学問の府においても因習にとらわれず、自由に想像の翼を広げていた。「いろいろやったほうが、長崎ちゃんぽんみたいでおいしいでしょう」という言葉に、思わず膝を打った。(本紙主幹・奥田喜久男)

2015.5.20/東京・中央区日本橋富沢町の人総研本社にて
 
心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
株式会社BCN 会長 奥田喜久男
 
<1000分の第144回(上)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
 

中学校の先生になるつもりが大学の助手に

奥田 西岡さんは人総研の研究主幹として、人材適性検査のTALやHalzなどを開発してこられました。ここに至るまでに、ずいぶんと多彩なキャリアを積み重ねられたとうかがっていますが、そのスタートはどこだったのでしょうか。

西岡 生まれは長崎県の五島列島です。上五島の有川というところで、昔、「佐田の山」という横綱がいましたが、私の兄の同級生でした。

 高校生になって初めて島を離れ、長崎市内に行ったのですが、駅に停まっている大きな蒸気機関車を見て、カルチャーショックを受けました。触ろうとしたら怒られてしまって(笑)。小さい頃から、目に見えないところが気になるんです。自分で全部見たり触ったりしないと気がすまない。いま思えば少し変わった子だったかもしれません。高校卒業後は、長崎大学の学芸学部(後の教育学部)に入学しました。

奥田 島から大学に行く人はどのくらいいたのですか。

西岡 同じ高校からは、同級生約180人中2人でした。

奥田 優等生ですね。

西岡 いや、高校では勉強しなかった。大学に入るなんて誰も思ってはいないですから、近所のおばさんがうちのおふくろに「幸ちゃん、通ったよ」と知らせても、おふくろは信じなかった。翌日の新聞に私の名前が載っているのを見て、やっと納得したくらいです。

奥田 なるほど。それで大学での生活は?

西岡 当時、一期校だった長崎大学に合格し、二期校の東京学芸大学にも受かったのですが、なぜ合格したか自分でもわかりませんでした。入学すると、すぐに化学の先生から呼び出されて、「君は数学の点数が何点か知っているか」と聞かれました。「4分の1(25点)しか取れませんでした」と言ったら、「うちの最低点は35点だけど、ほかの科目の点数がよかったから特別に通した。だから頑張らなくちゃいけないよ」と言われたんですが、大学でもものの見事に勉強しなかったですね。軽音楽部というところに入って、ベースを毎日弾いていました。それはすごく楽しい。そういう楽しさがあって、勉強で追い込まれなかったことがよかったと思いますね。

奥田 天才の片鱗ですね。

西岡 いえいえ、大学を出たら中学校の理科の教師になるつもりだったんです。ところが、赴任予定の中学の校長に電話をしたら、「君は名簿に載っていない」と。このときは驚きましたね。とりあえず、どういう事情かわからなかったので、私のことをかわいがってくれていた天文学の教授のところに、相談しに行ったのです。すると、先生は「君は助手になることになった」と言うではありませんか。また、ビックリです。

奥田 いつの間にか進路が変わっていたわけですか。

西岡 いまではあり得ない話ですが、当時の大学教授の権限はそれほど大きかったのです。教育委員会に話をつけて、本人がまったく知らないところで、私を助手にしてしまったわけです。その天文学の教授は東京大学からわざわざ招聘した偉い先生で、空気中のチリやゴミによる太陽光線の散乱、レイリー散乱とかミー散乱といった現象の計算をする専門家だったのです。私は、そのときに特別な計算方式を編み出したとはいえ、実は自分がどうして助手に選ばれたのかわからなくて、その理由を教授に聞いたのです。そうしたら「君はアンプがつくれるからだ」と。教授の部屋には高価なスピーカーやアンプがあったのですが、そのアンプが壊れたので私が駆り出されたのです。

奥田 それで、中学の先生から大学の助手に……。

西岡 その天文学の教授との付き合いは7、8年の期間でした。退官されたんです。次は地質学専攻の教授についたのですが、その先生も数年で退官され、その後に教育工学の教室に移りました。そこから、九州大学に1年間、研究員として籍を置いた後、長崎大学を離れました。
 

学問の境にこだわらない「雑学」を強みに

奥田 天文学と地質学というのは、何か共通しているものがあるのですか。

西岡 教授会では、私が天文学から地質学に行ったときに、「天から地に落ちた」とうわさになったようですが、当時から自分のなかには「雑学」という意識がありました。

奥田 それは、学問の範囲が広いという意味ですか。

西岡 そうですね。ジャンルを区切らず何でもかんでもという、まさに長崎ちゃんぽんと同じ発想ですね。

奥田 レオナルド・ダ・ビンチやミケランジェロのように多様な才能を発揮し、学問の境を取り払うと。

西岡 大学では、研究分野を変えることで将来が駄目になると、さんざん言われました。でも、私には抵抗感はなかったですね。また、別の味が楽しめるだろうと思っていました。ですから、専攻を変えたのは確信犯です。いまだに「雑学」のほうが楽しいですね。

奥田 ところで、天文学のときは光の散乱の計算をされていたということですが、当時コンピュータは?

西岡 最初は手回し計算機です。これではいけないと思って、助手になって2年目、無謀にも全国の国立大学のコンピュータ導入の主管だった京都大学の教授を訪ねて行ったら、たまたまその先生が研究室におられたんです。

 「どこから来たのか」と問われて、長崎から来たと。「何をしに来たか」と聞かれるから、コンピュータが欲しいと言ったのです。そうしたら、「なぜ欲しいのか」と。天文学で膨大な計算をしているが、右手も左手も腱鞘炎になって、計算ができないと言ったら、「君のところは3年後だ」と言われました。九州大学には入っており、次が熊本で、その次だというのです。

 そこを何とかと頼み込んだせいか、その後1年半くらいで、熊本大学に続いて長崎大学にも入りました。入ったのは富士通のFACOMでした。

奥田 九州にはいつまでいらしたのですか。

西岡 38歳までです。実は、助教授ポストの選考前に根回しの慣行を無視したことで任用されず、別に福井大学の助教授の口もあったのですが、その年は大雪で、妻が「雪の深いところには行きたくない」と言い出して、しょうがないから東京に出るかということになってしまいました。(つづく)

 

愛用の靴べら

 どこで手に入れたか覚えていない愛用の靴べら。同じものが3つあったそうだが、うち2つは行方不明。過去の修得学習にこだわらないことで、ほかには無い独自の検査を生み出したが、これは18年間も使い続けているそうだ。