事業には紆余曲折がつきもの。鈴木慶さんは若い頃から商売を志し、大きな成功を収めた。とはいえ、大きな挫折も味わい、かつマーケットと時代の変化をチャンスとして這い上がった一人といえる。お話をうかがっていると、器用にスイスイと世の中を渡ってきたタイプではなく、トライアンドエラーを繰り返し、次のビジネスに立ち向かっていく姿勢が浮かび上がる。「勉強が嫌いだから大学進学なんて考えなかった」とおっしゃる。はたして彼のいう“勉強”とは何なのか。実社会では人の何倍もの勉強をされたはずだ。(本紙主幹・奥田喜久男)

2016.3.31/東京・新宿区のシュッピン本社にて
 
心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
株式会社BCN 会長 奥田喜久男
 
<1000分の第162回(上)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
 

お客さんに喜んでもらうことが商売につながる

奥田 鈴木さんの起業人生のスタートは?

鈴木 貸レコード屋ですね。1981年5月の開業です。

奥田 どんなきっかけで独立されたのですか?

鈴木 高校を卒業して、すぐ父が経営する旅行会社に勤めたのですが、後から入ってきた大卒社員との給料の差に愕然としました。営業職は結果がすべてと思っていたのですが、実績よりも学歴が重視されていたんですね。苦労して結果を出したのに、入ってきたばかりの新人より給料が低い。それがすべてのきっかけです。コンチクショーと思って、「やってやるぞ!」というスイッチを入れられちゃった感じですね。

奥田 それなら大学に行こうという発想は?

鈴木 まったく考えもしなかったですね。勉強きらいだったから(笑)。この時点でどんな商売をするかはまだ決められませんでしたが、とにかく「人の下でやるのはつまらない。起業したい」と思うようになりました。

奥田 なぜ、貸レコード屋を?

鈴木 当時、立教大学の学生が始めた黎紅堂という貸レコード屋が三鷹の裏通りにあり、ブームになっていたのですが、これに興味をもったんですね。その一番の理由は、お金がほとんどかからないこと。当時の貸レコード屋は、手づくり感いっぱいのお店がほとんどでした。どこか安い店舗を借りればできるよね、というノリです。高校の同級生で、まだ大学生なのに塾経営で成功している友達と組んで始めました。出店したのは埼玉の大宮。開業資金は80万円ほどしかなく、店の家賃は13坪で13万円。最初は二人のレコードをもち寄り、たった150枚のLPを黒く塗ったカラーボックスに並べてのスタートです。

奥田 最初の商売の感触はどんなものでしたか?

鈴木 初めて売り上げが立ったとき、お客さんから「こんな貴重なレコードを貸していただいてありがとうございます」といわれたのです。その言葉がうれしくて手が震えてしまい、うまく伝票が書けませんでした。

奥田 わかるなあ。

鈴木 感謝されて、売り上げが立つことに感動しました。本来、商売はそういうものなのでしょうね。何かを売ろうと思ったらダメで、人に喜んでもらうことをして、結果的にそれが売り上げにつながるものだと。

奥田 大宮では何年くらいやったのですか。

鈴木 2年くらいですね。結局その共同経営は方向性の違いからうまくいかず、利益を折半して別れることになりましたが、そこがビジネスの原点であることは間違いありません。 当時、私は2号店を出したいと思っていたのですが、成功している有名な貸レコード屋とどこが違うかを考えました。一つは都会の東京と田舎の大宮という違い、もう一つは向こうには話題性があり、自分はそれを真似ただけだという結論に行き着きました。

奥田 SWOT分析したわけですね。

鈴木 そうです。そこで、誰も貸していないものを貸せないかということと、どうしたら東京でやれるかということが次のテーマになりました。ビデオレンタルも考えましたが、同じようなタイミングでツタヤの増田宗昭さんなどがスタートさせています。ならばどうするか。

 私は、天才・孫正義さん、神童・西和彦さんの記事やビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズの記事を読んでいました。そこで、当時のマイコン市場をみに秋葉原に行ったのです。すると店頭は、ゲームをやっている子どもたちで溢れかえっています。これだ!と。コンピュータ業界に関われば、何かすごいことになるのではないかと直感し、貸コンピュータソフト屋を思いついたのです。
 

閑古鳥の鳴く店に長蛇の列が!

奥田 貸ソフトでいよいよ東京進出ですね。

鈴木 それで物件探しをするのですが、結局みつかったのが高田馬場のマンションの7階。まわりはサラ金屋だらけのペンシルビルでした。82年、22歳のとき、有限会社ソフマップの誕生です。ところが始めて半年は閑古鳥。もうやめようかと思い悩む日が続き、いざやめようと決断すると、不思議なことにお客さんが「すごく助かっているから、ぜったいやめないでくださいね」「続けていれば、きっといいことありますから」と、私の心を読んだかのように声をかけてくるのです。すると、やめるにやめられない。お客さんの多くは、近くにある早大理工学部の学生さんでしたが、彼らに助けられたようなものだと思います。

奥田 何か転機があったのですか。

鈴木 朝日新聞の記者が取材に来て状況が大きく変わりました。当時、貸レコード裁判などが起こされていたため、記者の関心は広義な意味でのソフトの著作権問題にありました。私はというと、有名になりたいという気持ちが勝って、過激なこともしゃべりまくり、もうめちゃくちゃでしたね。でも、記事が掲載されるとすべてが激変しました。まさに、流行らないラーメン屋に突然行列ができたようなものです。店から「大変なことになっている!」と連絡があり、あわててみに行ったら、マンションに人が入り切れない状態で長蛇の列。

奥田 貸ソフトの売り上げは?

鈴木 凄まじく増えました。このとき、こんないいビジネスはない、濡れ手で粟だなと思いました。ただ、驚いたのはそれだけではありませんでした。その後、同業のできるスピードも凄まじかった。それまで私の1店舗しかなかった貸ソフト屋が、翌年には100店くらいできてしまったのです。危機感を抱き、焦りました。とにかく早く、ビルの1階にきちんとしたお店をつくりたいと。

 そんなとき、ある方を通じて、会社の株を8割ほど、500万円で買い取ってもいいという話が舞い込みました。おいしい話ですよね。実はこのとき、一度、小切手を受け取っているんです。これを元手に1階に出店できると。でも、くやしくて仕方ない。自分の会社を売るわけですから。

奥田 それは複雑な心境ですね。

鈴木 その出資者の方が、私の顔色をみて「一日待つから、売りたくなければ小切手を返してくれればいい」と言ってくれたのです。一晩悩んだ末、その小切手はお返ししました。幸いなことに、その後、別の出資者が現れて、自分が筆頭株主のまま秋葉原のビルの1階に出店することができました。そうしたなか、ソフトウェアレンタルは違法であると、ソフトウェアメーカーから訴えられてしまったのです。(つづく)

世界に一つしかない 愛用のライカ

 シュッピンのカメラ専門店マップカメラはライカブティックを運営している。鈴木さんご自身は昔からカメラが大好きで造詣が深い。この機種はエルメスの革を巻いた特注品。もちろん、お気に入りの逸品である。
 

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