大みか事業所が掲げる「GO綱領」を語る時の木村さんは、顔が輝く、声が弾む。指針の一つずつを読み上げ、説明してくださる様子は、本当に誇らしげだ。そんな木村さんのちょっと先の目標の一つは、地域社会の役に立てる人になりたいということ。日立市をもっと盛り立てていきたいのだそうだ。企業と人と地域。同社が育んできた106年の幹の太さと根の豊かさが、見事な三位一体となって形成されていた。(本紙主幹・奥田喜久男)

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2016.11.7/日立製作所 大みか事業所にて
 
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「打ち込め魂 仕事の上に」
工場内のあちこちに貼られている

 
心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
株式会社BCN 会長 奥田喜久男
 
<1000分の第175回(下)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
 

106年の歴史がつむぐ日立製作所の人の縦糸

奥田 木村さんが日立製作所に入社されたきっかけはなんだったのですか。

木村 小さい時から、とにかくものづくりが好きだったんです。弟の自転車とか壊れたラジオとかをばらしては組み立ててましたね。

奥田 手先が器用だったんですね。

木村 私が器用というか、親父が器用だったので、その影響だと思います。父親はエンジニアでしたが、塀や簡単な家具などすべてつくっていました。家のなかに工具があるので、親父の手伝いをしながら見たりするのが楽しかったですね。後、いろんなところに工場見学に行きました。

奥田 それは学校からですか。

木村 学校でも行きましたし、地域の子ども会とかいろいろです。「あそこに行きたい」と親にねだったこともあります。ある時、牛乳工場へ見学に行って、牛乳瓶がラインでどっと流れてくるのを見て、ものづくりに携わりたいと思ったんです。このすごい機械をつくったのは誰だろう、どうやってつくったんだろうと。中学校に入る前くらいの時でした。

奥田 その頃からものづくりの道に歩み始めるのですね。その後は?

木村 私は千葉県で育ちましたが、親父は日立市の出身で、親戚がたくさん日立にいたんです。それで「日立工業専修学校」という存在を知りました。

奥田 それはどういう学校なんですか。

木村 とても歴史の古い学校で、日立製作所の創業と同じ1910年にできたんです。

奥田 なんと!創業と開校が一緒ですか。

木村 日立製作所の初代社長、小平浪平が「事業の発展は人にあり」ということで開校したのだそうです。当初は「徒弟養成学校」という名称だったようです。因みに私は63回生なんですが、先日102回生が事業所に入ってきました。最近、長い歴史のなかで初めて女性が入学したようで、もう卒業生が出始めたのかな。まだ大みか事業所には来てませんけど。正直ビックリしました。男子と同じ作業服を着て、機械加工とかもやるそうです。立派だと思います。

奥田 時代を反映していますねえ。

木村 同校を卒業した「日工同窓会」という組織があるんですが、大みか事業所で250人くらいいます。日立全体では、3000~3500人くらいいるんじゃないでしょうか。

奥田 それは現役ですか。

木村 そうです。現役でその数です。因みに、同窓会の上にはOB会があって「本部会員」と呼んでいるようです。日工同窓会では、2か月か3か月に1度配布される会報があるんですが、OBにも配布されます。会報は地域ごとに幹事さんがOBのお宅に1軒1軒配って渡すんだそうです。

奥田 手渡しなんですか。

木村 郵送じゃないんです。各地域ごとに、散歩がてらにみんなの顔を見にいくという先輩もおいでになります。

奥田 今日初めてうかがいました。日立製作所のその縦糸のものづくりはすごいです。

木村 私もすごいと思います。軸がピシッとありますから。事業所内もそうですが、私たちクラスになると、各事業所間の交流もあるんです。そういう時、同窓生や同期生がいるというのはある意味楽なところもあります。
 

黄綬褒章受章の内示、浮かんだのは先輩がたの顔

奥田 木村さんにうかがいます。日立製作所に対する誇りはなんですか。

木村 社会に役立つ会社であることでしょうか。私たちがつくっているものは、インフラ関係をはじめ、人が快適な生活を送ることができる製品です。「社会を支える」という大きな使命を負って仕事ができることは誇りですね。

奥田 ということは、つくっている場所、国、人というのはあまり関係がない?

木村 完成したものがちゃんと世の中のためになる、快適な環境になることが目的なので、場所や国は関係ないと思います。

奥田 今のはレベルの高い回答ですね。では、メイドイン日立の大みかと、メイドインジャパンのどこか、メイドインチャイナ、いずれも日立の製品だけれど、木村さんの誇りはどこにありますか。

木村 そういう聞かれ方をすると、大みかですね。

奥田 いい回答が出てきましたね(笑)。やっぱり大みかですか。その誇りはどこにあるんでしょう。

木村 大みか事業所ができたのは1969年で、日立工場と国分工場という二つの事業所の関係部門が一緒になってできました。合併後、いろいろ文化が違って大変だったようで、それを一つにするために先輩たちは非常に努力をされた。そのなかの一つに「GO綱領」というのがあるんです。GOはGreater Omika「より偉大なる大みか工場になる」を意味します。

奥田 同じ日立製作所でも、工場によって文化が異なるんですか。

木村 違いますね。ものをつくるルールが工場ごとにあるんです。ですから日立工場方式と国分工場方式のどちらが正しいか、ではなく両方正しかったんです。でもそれを一つにまとめないと大みかの工場としての次がない。

奥田 いわゆる大みか方式をつくるわけですね。

木村 そうです。長いスパンをかけて、お互いのいいとこ取りをやってきました。この「GO綱領」が大好きでして、1から5まであるんですけど、入社した時にまずこれを教わりました。大みかの真髄はここにあるし、私のベースもここにあります。

奥田 本当に日立製作所を、大みか事業所を愛してらっしゃるんですねえ。木村さん、ちょっと先の目標を三つ聞かせていただけますか。

木村 まずは、日立製作所に恩返しがしたいです。15歳で日立工業専修学校に入ってから、今57歳。私はここまで成長させてもらいました。だから、この成長したことをちゃんと後輩たちに教えることによって恩返しをしたいんです。

奥田 泣けますね。

木村 本当に私が今あるのは、先輩がたや日立製作所の教育のおかげです。2015年に黄綬褒章をいただいて、ものすごくうれしかったんですが、部長から内示を聞いた時に浮かんだのは先輩の顔なんです。あの方たちがいてくれたからもらえたんだなと思って。ちゃんと恩返しをしていかないとバチあたるなと思います。
 
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黄綬褒章と賞状
先輩たちがいてくれたからもらえたと
木村さんは語る

奥田 二つめは。

木村 地域社会に役に立てる人間になってみたいですね。日立市をもっと盛り立てていきたいです。

奥田 では三つめは。

木村 いろいろ好き勝手なことをやってきたんで、かみさんとか家族に感謝の気持ちをね。いや、ありがとうとは言ってるんですが、もうちょっと孝行しないとまずいかなと……。

奥田 美しいなあ。

木村 いや、頭が上がらないだけです(笑)
 

こぼれ話

  対談を終え、間もなくして葉書をいただいた。大きな文字で『打ち込め魂 仕事の上に』と書いてあった。筆跡や文字はそれぞれに雰囲気をもっている。なかでも“大甕”という文字は難解にして風格がある。現在は“大みか”と平仮名遣いで容易なのだが、もう少し重々しさがほしいな、とも思う。私のなかでの大みかは「日立製作所」に紐づき、企業城下町のなかの本流といった印象がある。木村和弘さんは10代の頃に「大甕に入りたい。大甕で働きたい。大甕でものづくりをしたい」という明確な目標をもった。

以来、大みかで学び、大みかに住み着いて日立のものづくりのトップ「工師」に上り詰めた。実にシンプルでわかりやすい経歴だ。工師とは日立の造語で、憧れるもなかなか手にできないものづくり集団の最高位だ。『千人回峰』は「ものづくりの環」の詩を基調としていることから、登場人物にはものづくりに携りそれを大切にしている人を選んでいる。
 
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 ひょんな事から「工師」という不思議な名称を聞き、お会いすることになった。ぜひ『千人回峰』に登場していただこうと、トントン拍子でことが運んだ。上野駅から常磐線に乗り、水戸駅を越えた先の大甕駅で下車し、車で海の方角に走ると、ほどなく日立大みか事業所に着く。事業所の前方には海が広々としている。会議室での会話は弾んだ。製造現場の視察では一段と木村さんの背筋が伸びた。「代々引き継いでいる大切な言葉はあれです」と指をさされた。『打ち込め魂 仕事の上に』。あちこちに貼ってあった。木村さんの背筋はピンと伸びている。しっかり握手をした。