「うちは本当にリーマンさまさまなんですよ」と北陸なまりの語り口。2008年のリーマン・ショックでは、多くの企業が深刻な痛手を被った。シーピーユーにしても例外ではない。怪訝な思いでその真意を聞くと、過去の最高売り上げが約25億円、そして現在の売り上げは、かなり回復したとはいえ、およそ16億円。でも利益はほぼ同じだという。「当時、すごく無駄遣いをしていたことはわかっていました。それなら無駄を省けば大丈夫だと。だから人も切りませんでした」と。創業者ならではの直観だと思う。(本紙主幹・奥田喜久男)

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2017.6.14/東京・千代田区のBCNにて

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心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
<1000分の第190回(上)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。

保険代理店を経営しながら、
コンピュータの将来性を予感する

奥田 宮川さんは、なぜ「シーピーユー」という社名をつけたのですか。

宮川 現在の株式会社シーピーユーは1984年9月の設立ですが、その前に「パソコンショップCPU」というお店を開きました。なるべく企業規模を大きくみせたいと思って、最初は「北陸○○」とか「日本○○」といったネーミングを考えていたのですが、パソコンのマニュアルを眺めていたらCPUという単語が目に飛び込んできたんです。パソコンの最も重要な心臓部のことですから、これがいいんじゃないかと。

奥田 なるほど、わかりやすいですね。ところで、そもそも宮川さんとコンピュータの接点はどこにあったのですか。

宮川 コンピュータと出会ったのは、生命保険の外交員をしていたときのことです。沖電気の代理店をしている北陸通信工業という会社に何度も通ったのですが、会議室くらいの部屋にオフコンが置かれていたんです。石川県は温泉旅館が多いですから、おそらく、その顧客管理システムの開発をしていたのだろうと思います。沖電気の一体型パソコンif800model20もリリースされており、新しいもの好きだった私は、このとき、コンピュータを売ってみたいと初めて考えたんです。

奥田 保険の仕事をしながら、コンピュータで何か商売ができないかと考えられたわけですか。

宮川 その後、安田火災の保険代理店アサヒ通商の代表となるのですが、まず保険代理店用の顧客管理ソフトをつくりました。

奥田 誰がつくったのですか。

宮川 後に当社の専務となる田中(尊雄氏)です。彼は保険代理店の事務所によく遊びに来ていて、私がSE的な立場で仕様書を書いて、田中にプログラムを組んでもらいました。それができ上がってから、北陸通信工業にパソコンを売らせてくださいと申し込んだのです。

奥田 ソフトがあればハードも売れるだろうということですね。

宮川 ところが、そのソフトは全然売れませんでした。安田火災は損保会社のなかでもコンピュータ化が進んでおり、翌月、翌々月更新用の契約書を代理店に送っていました。だから、代理店は自社にコンピュータを導入する必要性を感じないんです。一生懸命営業しても、見向きもしてもらえませんでした。

奥田 つくった甲斐がありませんでしたね。

宮川 でも私自身は、安定した手数料収入が得られるように、自社なりの「見える化」をしたいと考えていました。このソフトを使って今後の趨勢をつかみ、「年末になったらこれだけしか契約高がないから、ここで満期になるものを増やそう」というように、先を見据えた経営をしたいという思いがあったのです。

奥田 80年前後の中小企業には、コンピュータを使って経営するという発想はほとんどありませんでした。すごく早いですね。

宮川 私は子どもの頃から、自分で稼がなければならないという思いをずっと抱いてきました。だから、何かきっかけがあったら商売に結びつけたいと考えていたんです。

奥田 それでコンピュータをみて、次の時代を感じたわけですね。

宮川 これからはコンピュータの時代だと、視界が開けたような気がしました。

パソコンショップ経営から
CADソフト開発にシフト

奥田 パソコンショップは、どんな雰囲気だったのですか。

宮川 ショップの開業は82年4月ですが、金沢市内のマンションの1階を借りてお店を開きました。土間のままで、壁もコンクリートを打ちっぱなしの状態だったので、自前で内装工事をしたんです。

奥田 どのくらいの広さでしたか。

宮川 24坪ほどでした。ショールームのような感じですね。パソコンが好きな人たちが気軽に集まってこられるように、中央に応接セットを置いて、壁際にパソコンを並べました。お客様がゆったりとすごせて、自由にパソコンを体験してもらえる空間にしたのです。

 ただし、子どもたちもたくさん来ていましたから、パソコンをさわる前に、必ずおしぼりで手を拭いてもらっていました。

奥田 さすが女性社長という感じですね。

宮川 なぜかというと、並べてあるパソコンを実際に売っていたからです。

奥田 現品を?

宮川 当時は初期不良が多かったため、一度展示して、動作確認をしてから販売していました。それが当時のうちのやり方でしたね。

奥田 ところで、そのパソコンショップ経営から現在のCADソフト開発にシフトされたのは、どんなことがきっかけになったのですか。

宮川 パソコンショップはお客様で賑わっていたのですが利幅が少なく、経営的にきびしかったということがあります。CADソフト開発のきっかけは、ショップの内装工事の際、建築会社の方が「パソコンで図面が書けたら便利だろうな」とつぶやいたことでした。

奥田 それを聞いてひらめいた!

宮川 83年8月に完成したのが、日本初のパソコン用建築CADソフト「まどりくん」です。当時発売されたばかりのNECのPC9801で開発したもので、パソコン業界からは注目を集めましたが、肝心の建築業界の反応はいま一つでした。

奥田 なかなか簡単にはいきませんね。

宮川 ただ引き合いを待っているだけでは埒が明かないので、クルマにパソコンを積んで全国の工務店や設計事務所を回ってデモンストレーションをするなど、営業活動に力を入れた結果、少しずつ売れるようになりました。

奥田 ソフト開発のほうに、本格的にシフトしたわけですね。

宮川 保険代理店の事業は譲渡し、ショップもたたみました。それで、最初に申しあげたように、84年9月に株式会社シーピーユーを設立したんです。

奥田 その後の展開はどうなりましたか。

宮川 85年に「まどりくん」を改良した「まどりくん見積連動システム」が大ヒットして、翌年には単年度収支を黒字化することができました。うれしかったですね。(つづく)

  ■“本当” の会社にするために人を大切にし、人を育ててゆきたい――第190回(下)
シーピーユー 代表取締役 宮川昌江

 

シーピーユー本社に
植えられた桜の木

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 13年前、転勤する金融機関の支店長からいただいたもの。10年ほど花をつけることがなかったが、同社がリーマン・ショックの痛手から復活し、実質的な利益を計上できた年に初めて咲いたという。今年は10輪とまだまだ数は少ないが、やがて満開にしたいと宮川社長は語る。