ASUS JAPANのエミリー・ルー社長は、「負けずぎらい」を自認する。とくに、男性には負けたくないという。5人姉弟の長女(男の子は末っ子のみ)で幼い頃からリーダー的役割を担ってきたせいか、「自分を女性だと思ったことがない」と話してくれた。でも、実際にお会いすると、とてもやさしい笑顔で話してくれる素敵な女性であり、3人のお子さんの母親という顔ももつ。経営者の二面性というとあまりよい印象はもたれないが、彼女の場合、それがとてもよい方向に作用しているように感じられた。(本紙主幹・奥田喜久男)

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心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
<1000分の第191回(上)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。

『BCN AWARD』獲得のニュースで株価上昇!

奥田 どうお呼びするのがいいでしょうか。

エミリー 「エミリー」と呼んでください。

奥田 わかりました。エミリーには、昨年の『BCN AWARD』のクロージングでスピーチをしていただきましたが、お会いするのはそれ以来ですね。

エミリー 新しいモバイルビジネスを日本市場で立ち上げ、SIMフリースマートフォン部門では2年連続1位をいただきました。マザーボード部門では12年連続1位で、言葉で表現できないほど御社には感謝しています。

奥田 それはBCNの力ではなく、ASUS JAPANとエミリーの実力ですから。

エミリー 実は日本でリリースされたASUSに関する記事は、すべてすぐに翻訳されて、台湾に伝わっているんです。ちょっと自慢話になりますが、『BCN AWARD』で1位をとったということもすぐに伝わって、株価が2%ほど上がりました。

奥田 それはすごい!

エミリー ASUSの日本市場での実績が、本社にとって重要な参考値となっているのです。もちろん、努力せずに1位を手に入れることはできませんから、もっと頑張って、次は株価を4%上げられるようにと思っています。

奥田 BCNランキングは1998年10月にスタートしましたが、これは量販店のPOSレジで集計された売上データをもとにしたものです。台湾にまつわる思い出といえば、2000年頃、親しい台湾の方々が、ぜひ日本でこのAWARDをとりたいといわれたことがありました。マーケットの支持を得るためには品質を高める必要があると。そこで底力を発揮した台湾メーカーの品質は、世界レベルになったんですね。

エミリー 『BCN AWARD』で評価をいただいたことは「台湾メーカー」ではなく「メーカー」として誇らしいことだと思いますし、それによってお客様に対しても大きな安心をもたらすことができると感じています。

「みんなが行くから行く」のは
イヤ

奥田 ところで、エミリーのコンピュータとの出会いはいつですか。

エミリー 大学院の時代です。最初に買ったパソコンは、アップルのパフォーマー。かわいいデザインでしたね。その次はWindowsに乗り換えて、シャープのメビウスを使っていました。

奥田 大学院はどちらに行かれたのですか。

エミリー 大阪大学の言語文化研究科です。

奥田 それでは、日本語との出会いは?

エミリー 大学時代です。大学は台湾大学の英文学科を卒業しましたが、第二外国語はドイツ語、第三外国語はフランス語、第四外国語が日本語だったんです。台湾大学は、当時数少ないとても自由な雰囲気の大学の一つで、なんでもやりたいことができました。そういう意味で恵まれていたと思います。

奥田 英文学科出身で、なぜ日本の大学院に進まれたのでしょうか。日本語は第四外国語なのに(笑)。

エミリー 確かに英語と関係のある言語といえばヨーロッパ言語で、当時、台湾からの留学先も米国とヨーロッパが主流でした。でも、それに従うのでなく、違うことをやってみたかったのですね。

奥田 主流を選ばなかった。

エミリー どうしてそう思ったのかあらためて考えたことはないのですが、たぶん、心のどこかに「主流」を選ぶことに抵抗感があったのかもしれません。

奥田 大阪大学の大学院を選ばれたのはどうしてですか。

エミリー 大学4年になるとみんなそれぞれ進路を決めていきますが、私の同級生のほとんどが米国留学を選びました。でも私は、みんなが米国に行くから私も行くというのは嫌だと思ったのです。

奥田 米国は主流だから(笑)。

エミリー そうですね。そんなとき日本の証券会社の奨学金の募集があり、日本語の先生から、台湾大学の学生だけを対象とした奨学金なのでぜひ受けてみたらと勧められました。

奥田 それが日本に留学するきっかけですか。

エミリー それに受かって、日本への留学資金を確保することができました。大阪大学の言語文化研究科は比較的新しい学科で、おもしろそうなコースがたくさんあったため、そこに惹かれました。

奥田 そういう主体的な生き方をしてきたエミリーは、どんな子ども時代を過ごしてきたのですか。

エミリー 台湾の郊外、桃園に5人姉弟の長女として生まれました。大家族であるうえに、住み込みで農作業をしている人がつねに20人以上いたので、ご飯も3組に分かれて食べるような生活環境でした。当時、台湾の高校、大学とも統一試験を受けて振り分けられる形だったので、私は高校1年生から台北で下宿生活でした。

奥田 高校から台北そして台湾大学ということは、とても優秀で期待されていたのですね。

エミリー 私には娘が3人いるのですが、いま考えてみると、高校1年生の子どもを一人で下宿させるなんて、と思いますね(笑)。

奥田 大学院を出てからは、どんな経歴をたどるのですか。

エミリー 大学院を修了して3年間ほどは、NHKの大阪放送局で、さまざまなドキュメンタリー番組のプロジェクトに携わりました。

奥田 具体的には、どのような仕事をされたのですか。

エミリー 多くが台湾やアジア諸国と関係のある番組だったので、構成、ストーリー、撮影、編集、通訳、翻訳と、ほとんど何でもやりました。

奥田 台湾まで行って撮影して、日本に戻って編集してと……。

エミリー そうですね。当時(99年)台湾で“921大地震”があり、そうした地震関係のドキュメンタリーも印象に残っています。

奥田 その後、コンピュータの世界に進まれたわけですが、そのいきさつはどうだったんですか。

エミリー NHKの仕事が一段落して、台湾に帰ることを決めたのが99年です。当時、台湾で盛んだった産業は、コンピュータと金融でした。そこでいくつかのコンピュータ会社に履歴書を出したのですが、ASUSが一番最初に返事をくれました。それで他の会社の面接は受けず、2000年にASUSに入社したんです。(つづく)

業績アップの要因は“よい製品” “よいチャネル” そして “よい社員”――第191回(下)
ASUS JAPAN 代表取締役社長 エミリー・ルー(呂 曉慧)

 

愛用の
ハンギングエッグチェア

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 エミリー・ルー社長の楽しみは、まだ小さなお子さんたちが寝静まってから、このチェアに座って読書することだそうだ。多忙な日常のなかで、とても貴重な時間なのだろう。