同姓の奥田克彦社長とはもう20年来のお付き合いで、一緒に山に登ったこともある仲だ。そんな社長奥田さんにあらためて社業とご自身の歩みについて伺おうと思ったら、「これ、みますか」と、年に一回、丸一日かけて行われる同社の業績発表会用の資料をスクリーンに映し出してくれた。こんなに詳細な情報を、従業員に伝える会社はほとんどない。その旨を口にすると「会社のことをもっとわかってもらわないといけないんです」とおっしゃる。そうした姿勢が、成長を続ける秘訣の一つなのだろう。(本紙主幹・奥田喜久男)

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心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
<1000分の第192回(上)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。

「コンピュータをやれば
いいじゃないか」

喜久男 創業が1982年ということは、もう35年ですか。

克彦 この7月で35期が終わり、36期目に入るタイミングです。

喜久男 設立以来、バブル崩壊やリーマン・ショックなどいろいろなことがあったにもかかわらず、ずっと黒字経営を続けてきたのはすごいと思っていたんです。

克彦 いや、2012年7月の30期だけは最終赤字を計上してしまいました。経常利益は出ていたのですが……。

喜久男 本業は黒字なのですから、立派です。ところで、奥田社長の今日に至るまでの足跡についてお聞きしたいのですが、学生時代はどんなことを勉強されたのですか。

克彦 大学は、静岡県の清水にある東海大学海洋学部でした。卒論のテーマは、超音波計波高ブイの研究です。海にブイを浮かべて、電波を発射し、その反応を解析して水深や波高を測るというものでした。国が2億円を拠出したプロジェクトで、この実験に携わって論文を書いたんです。コンピュータを使ったのも、このときがはじめてでしたね。

喜久男 卒業されたのは何年ですか。

克彦 1976年です。この年は就職難だったので、大学を出てから1年だけコンピュータの知識を学ぼうと思い日本電子専門学校に入りました。

喜久男 コンピュータの道に進もうと思ったのは、なぜですか。

克彦 卒論の指導をしてくれた港湾技術研究所(現・港湾空港技術研究所)の主任研究員の方が、「これから有望だから、コンピュータをやればいいじゃないか」といってくださったのがきっかけです。私自身、コンピュータは面白くなると思っていましたし。その言葉が、いまの仕事につながっています。

喜久男 その方の言葉に、背中を押されたということですね。

克彦 もともと理工系のほうが好きだったこともありました。いちおう、専門学校では一番の成績だったんですよ。

喜久男 それはかなりの実力ですね。

克彦 ところが、先生に紹介されて入った会社がいい加減なところだったので、そこから人生が変わってしまったのです。

28歳にして
6人の仲間と独立

喜久男 それはソフト開発の会社ですか。

克彦 そこはほとんど派遣の仕事ばかりでした。私が入社して、はじめて一括請負の仕事を受注したのですが、そのリーダーとしてたいへんな思いをしました。

喜久男 80年頃の話ですね。

克彦 まだ2、3年の経験しかないのに、一括の案件をやれというわけです。

喜久男 それは、すごいことですね。

克彦 むちゃくちゃですよ。それでも、徹夜、徹夜でなんとかこなしていったんです。新人の部下を2、3人つけてくれたのですが、みんな順番に倒れていくんですね。

喜久男 当時の開発は、まさに体力勝負、消耗戦ですよね。

克彦 一括の仕事をやるとき、当時、マシン時間がとれたのは夜中だけでした。下町のほうにコンピュータを置く建屋があって、そこを使うように割り当てられるんです。「あなたは午前1時から2時間」とか「君は午前3時から2時間」とか指示されて。夜中に移動して、その時間までにテストデータを準備し、自分の時間になったら、そのデータを流して結果をみるというような形でした。

喜久男 そんな生活に嫌気がさして、その会社を辞めてしまったわけですね。

克彦 忙しいだけでなく、経営者の考え方に納得がいかなかったんですね。すると、ある大手ソフト会社から、仕事も場所も準備するから来ないかという誘いがありました。つまり、このとき会社を辞めた6人がグループになって、その会社の机を借り、受託開発の仕事をしたのです。

喜久男 それは社員としてではなく、間借りしていたということですか。

克彦 はい。そこで作業をしてシステムをつくり、最終的には富士電機・富士通グループの富士ファコム制御(当時)に納める形でした。

喜久男 その流れで、富士通系列の仕事をたくさん手がけることになるわけですね。

克彦 約1年はそんな形で開発に携わり、28歳のとき、新宿区大久保に事務所を構えて、ベーシックという社名で法人化しました。

喜久男 なぜ、ベーシックという名前に?

克彦 「基本が大事」という思いからです。

喜久男 当時、BASIC言語はありましたか。

克彦 ありましたが、それはまったく頭にありませんでした。あくまで「基本」という意味からつけたんです。悪くない名前でしょう。

喜久男 いいと思います。これ以上細分化できない元素記号みたいなネーミングですね(笑)。

克彦 82年に独立したのですが、事務所の明かりが一晩中消えなかったので、近所の人から、何かいかがわしいものをつくっているのではないかと疑われました(笑)。結局、自分の会社でも徹夜仕事です。でも、この年に富士通や富士電機関係の取引口座ができて、通信・制御関係のFA(工場設備の自動化)などの受託開発を継続受注できたのです。リーマン・ショックの頃まで派遣はなく、ほぼ100%が受託開発でした。

喜久男 安定した滑り出しだったのですね。

克彦 それから、これはわれながら異常だったと思うのですが、設立3年目の85年には新卒採用を開始し、その後とだえることなく31年間、毎年採用を続けました。そのうえ、当初の10年ほどは、採用人数は毎年十数名。85年の時点では既存社員が十数人しかいないのに、新人も同じくらい採ったんです。

喜久男 それは自慢できますね。

克彦 なぜ、そんなにたくさん採ったかというと、仕事が派遣ではなく一括請負だったからです。新人が入ってくると、私が3人教えて、専務が2人教えるというように分担するんですよ。私が教える3人には、それぞれがつくったものを評価して、すべて赤ペンを入れて、デバックが終わるまでつきあってあげます。専務も同じです。そうやって、一括の仕事をこなすための人材を育成していたんです。(つづく)

難しい課題をクリアすることが 実力の向上と顧客からの 信頼をもたらす――第192回(下)
ベーシック 代表取締役 奥田克彦

 

趣味は「積読」?

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 うまく問題が解決できないときやアイディアが出てこないとき、本を通じて先人の知恵に学ぶそうだ。だから、気になった本はとりあえず買っておく。自分が考え悩むことのほとんどは、そこに記されていると奥田さんはいう。“気になる本”の詳細は社外秘だとか……。(この写真は自撮)