ベーシックの奥田社長は自社の歴史を振り返って「強運の会社」と表現する。「運がよかった」とか「縁があった」という謙虚な言葉を口にする。長年、経営のかじ取りをするなかで、運や縁を意識せざるを得ない局面が少なからずあることは同じ経営者として理解できる。でも、受け身の姿勢だけでは経営はできない。「まず、食べられるようになって、それから、いかに創造力を発揮できるかが経営の勝負なんです」。こうした凄味のある言葉から、やはり運ではなく実力の人であることを改めて感じさせられた。(本紙主幹・奥田喜久男)

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2017.6.29/東京・新宿区のベーシック本社にて

心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
<1000分の第192回(下)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。

優れた技術力が
顧客との関係を深めた

喜久男 設立3年目から新人を毎年10人以上採用してきたということは、仕事がそれだけあったということだと思いますが、新規開拓はどのようにやってこられたのですか。

克彦 基本的に、新規のお客様は派生型であることが多いですね。最初に取引した富士電機や富士通の社員が、古河電工やパナファコム(現・PFU)に移ったりする際に、うちの仕事を手伝ってよといわれて横に広がるケースですね。紹介で取引が始まるケースもありますが、自分たちから仕事を取りに行くケースはほとんどありません。

喜久男 技術屋さんのかたまりだから……。

克彦 営業は弱いですね。何かプロジェクトをやって、そこで信頼されて、また次の仕事をという形です。ですから、それぞれのお客様との関係は深いんです。一度つきあってうまくいくと、先方の取引額トップ5に入ったりするため、途中で切れることは少ないですね。

喜久男 顧客と深い関係を築くためのコツはあるのですか。

克彦 やはり、難しい課題をクリアすることです。また、相手から依頼されるだけではなくこちらから提案する姿勢も大事です。ベーシックの技術力、開発力を必要とするテーマがある場合は、おのずから関係が深くなりますね。

次代も存続していくためには
変化しなければならない

喜久男 具体的には、技術開発の面でどんなことがありましたか。

克彦 会社を設立して間もなくUNIX環境でLANの構築をしたのですが、言語はC言語だったんです。当時、C言語の参考書は2冊しかなくて、とりあえずそれを通勤電車の中で読みながら、必死につくった覚えがあります。

喜久男 80年代の前半だと、C言語が使える技術者は少なかったのですか。

克彦 まだ、出はじめの頃ですからね。それで、すぐにマシンを買ったんですよ。86年にパナファコムのU1200IIを購入し、同時にUNIXシステム(UNICUS)も買いました。U1200IIは1200万円くらいしましたね。当時、ミニコンを買うソフト会社はほとんどありませんでした。まして、まだ30人程度の小さな会社です。でも、マシンは24時間動くから目いっぱい使おうと、折り畳みのビニールベッドを買って……。

喜久男 要するに、会社に寝泊まりしたと。

克彦 そうそう(笑)。そういうことをやりながら、UNIXに関係する仕事をどんどん受注していったんです。

喜久男 具体的にはどんな仕事がありましたか。

克彦 88年に電力の送電監視システムを受注し、これがうまくいきました。UNIXでつくったものですが、関東一円の送電状況を24時間、通信で監視するんです。変電所やトランスにトラブルがあったり台風で電柱が倒れたりしたら、どういう経路で電流を流せばいいかといった問題もこのシステムで解決できました。

 この仕事が評価されて、90年に、高速道路の渋滞や気象条件による減速指示などを表示する「情報板中央システム」の仕事を受注しました。エリアは四国全体です。失敗したら会社が吹き飛んでしまうような大きな仕事でしたが、その後、他の地区にも進出して、一時は全国の高速道路の表示系システムの9割を制覇しました。

喜久男 それは、ベーシックが成長していくうえでの大きなポイントですね。

克彦 その後、バブル崩壊で多くの中小IT企業が消滅していきましたが、その状況をくぐり抜けることができたのは、この仕事が数年にわたってあったからです。当時、社員の平均残業時間は毎月80時間。私は会社の近くにアパートを借りて、1週間に1回しか自宅に帰れないような状況でした。もちろん、いまだったらブラック企業ですよ。

喜久男 でも、面白い時期だったでしょう。

克彦 この仕事を通じて、技術力や設計力が上がりましたね。

喜久男 これからの事業展開については、どうお考えですか。

克彦 当社の事業ドメインは、システム開発、SIソリューション、プロダクトサービスの三つがベースでしたが、さらに、クラウド型の運用・保守サービスもそれに加えていこうと考えています。

喜久男 運用・保守サービスは、ストックビジネスですね。

克彦 変動性のビジネスからストック性のビジネスを増やす狙いがあり、これが安定的な収益源になると考えています。

喜久男 事業のポートフォリオも変えていくと。

克彦 5年後の40期には、現在、全体の80%を占めるシステム開発の仕事を半減させ、その他のドメインの仕事を倍増、三倍増させる構想をもっています。それから、これは10年先に実現できればいいと思っているのですが、IT活用ビジネスも新しいドメインにしたいんです。

喜久男 IT活用ビジネスというのは、何を指すのですか。

克彦 たとえば、当社は「はぐくむ保育」という保育園向けのパッケージを販売していますが、システムやパッケージを開発するのではなく、その先にある保育園を経営するということです。

喜久男 ITの開発に関わらないまったくの新規事業ということですか。

克彦 ITをつくるビジネスから使うビジネスへという発想です。

喜久男 もう、ソフト開発にはポテンシャルがないとみているのですか。

克彦 ポテンシャルがある部分は伸びていくのでしょうが、それだけでは難しい時代が来るのではないかという思いがあります。そうした状況へのリスクヘッジという意味と、これまでと異なるステージで創造力を発揮するのもいいのではないかということですね。

喜久男 ここまで順調に会社を成長させてきた要因はなんだと思いますか。

克彦 私が、このソフト業界と馬が合ったことが大きいですね。いまも、AI、スマートロボット、IoT、クラウド、5G、自動走行システム、フィンテックなど、さまざまな技術や新しいテーマが登場してきます。私たちはこれをうまくジョイントさせる役割を担っていると考えていますが、価値の転換は必ず起こります。次世代以降も存続していくためには、自社のビジネスのドメインや構造を変化させていかなければならないと思います。
 

こぼれ話

 人の立ち振る舞いというのはさまざまだ。ベーシックの奥田克彦社長は、下手下手の物腰で、物言いも自信なげで、お顔といえばムニャムニャした感じなので、思わず見誤ってしまう。もちろんこの様相は“外面”であろう。私自身も今回の対談で、唸らされるような生き様に接した。
 
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 『千人回峰』は2号に渡って掲載し、それも大きな写真で人物像を引き出すようにしている。

 掲載する写真は紙面が構成されてから私のところに上がってくる。写真を見て驚いた。上編の写真は高田馬場の線路際に建つ本社の社長室から新宿方向を背景にしている。この表情には初めてお目にかかった。たぶん社長室での“一人顔”であろう。とにかく、もの事の本質をつかむまで考え続ける人である。顔の皺はそれを物語っている。とくに眉間のシワは深い。悲壮皺でなくて思考皺とみた。

 本掲載号の写真は会議の時の表情であろう。井上ひさしの名言に「むづかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく」とある。この左向きの写真はそうした言葉を発している時の表情である。取材は社長室で行われた。冒頭から全社員に伝える年次報告会の資料説明から始まった。それはソフト開発事業の収益構造の根幹を伝える内容だ。あまりにも詳しいので「ここまで社員に公開するのですか」と聞いた。「会社のことをもっとわかってもらわないといけないんです」。今年創業35周年、立派だ
と思った。

 自撮りの写真のお顔を見るとホッとする……。