仕事柄いろいろな人に会う。何十年もの間、年齢、業種、国籍さまざまな人と相対するうちに、人はそれぞれのオーラをもっていることに気づく。専門家ではないので詳しいことはわからないが、とにかく人によってオーラは異なる。平田さんに最初に会ったのはシンガポールだった。広い会場のなか、平田さんのまわりがゴージャスで優雅なオーラに満ちていたことを記憶している。そのオーラはどこからくるものか、平田さんに聞いた。(本紙主幹・奥田喜久男)

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2017.8.2/東京・小伝馬町のワンダフルフライにて

心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
<1000分の第194回(上)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。

ステップアップを目指して
24歳で上海から日本へ

奥田 ご出身は中国でいらっしゃいますよね。

平田 シルクロードにある新疆アクスという地区で9歳まで育ちました。父は地方の政府官員、母は上海からの援疆医者(知青:文化革命時における都市部の知識青年を地方に動員する政策)です。

奥田 アクスはどんなところですか。

平田 アクス川とタシカン川にはさまれた平原で綺麗なところです。タクラマカン砂漠に属していますが、緑が多くフルーツもたくさん採れます。

奥田 川で泳いだりしたのですか。

平田 いえいえ、流れが激しく泳いだりはできません。危険だからということで、親からは川に行くことを禁止されていましたね。

奥田 それでも行った……。

平田 こっそり遊びに行って、帰ってから怒られたことが多かった(笑)。

奥田 おてんばだったのですね。アクスから、上海に引っ越された。

平田 上海では日本に来るまでの15年間を過ごしました。

奥田 アクスと上海、ずいぶん環境も変わったのではないですか。

平田 お母さんは上海生まれで上海語がほとんどでしたので言葉の壁はないですが、私は地域差による文化や考え方が違いすぎて、とくに上海の子どもの遊び方はアクスにいた頃の自然派の遊び方と全然違っていて戸惑ったことが多かったです。

奥田 ご苦労も多かったんですね。

平田 でも、子どもは辛いことをすぐに忘れますから。アクスの自然のなかでとても楽しい思い出が多かったので、私は天然ハッピーの性格になっていると思います。それに今考えると、9歳で上海に行ったことは、遊び天性から勉強の成長路へのちょうどいいタイミングだったように思います。

奥田 上海で学生時代を過ごして、就職も上海ですか。

平田 そうです。上海ではしっかりと中国式の教育を受けて、両親からはよい子になり、よく勉強して、よい学校へいって、よい仕事をしてくださいと言われました。おかげさまで1994年に日本興業銀行に入社できました。当時は本当にもの知らずで、ジーンズを履いて面接に行きました。しかも、親知らずが生えたせいで顔が腫れたままで……(笑)。

奥田 それでも受かったということですね。すごいなあ。

平田 運が良かった、その頃は日本語を勉強している人が少なかったかもしれないです。

奥田 銀行での仕事はいかがでしたか。

平田 職場では日本人や中国人、欧米人など、たくさんの優秀な人に出会いました。銀行は実に激しいグローバル競争のなかにあります。みんなすごく勉強熱心で、頭がよく優秀な人が私よりずっと頑張っていました。英語の語学力を上げたり、MBAを目指したり、会計士を目指したり……。そして、しばらく経つとみんなは米国や英国など、それぞれの道に進んでいきました。

奥田 平田さんも刺激を受けましたか。

平田 すごく刺激を受けました。その時に初めて将来のことを真剣に考え、日本に行こうと決めました。24歳の時です。

奥田 日本にいらしてからはどうされたのですか。

平田 自分が日本で何ができるのか、もう一度見直すために旅行会社や貿易会社など、いろいろな業界の仕事を体験しました。友人が経営している料理屋さんでホールの手伝いの仕事もしました。実際になかに入って体験しないと、経営とは何かがわかりませんから。

奥田 身をもって体験されたわけですね。

平田 その頃に友達と東京タワーに登った時のことがすごく印象的でした。

奥田 何があったのですか。

平田 登るまでもすごくワクワクしていたのですが、展望台から見える東京のキラキラ輝く夜景に感銘を受けて、自分の未来を今よりずっとよいものにしたい、経営者になりたいと決意しました。

リーマン・ショックの危機が
生み出した自社開発商品

奥田 その後、経営の勉強をするために獨協大学にいらしたのですね。なぜ経営だったのですか。

平田 銀行にいた時は、自分は組織の一員です。自分が経営者になろうとすると何もかも足りないのです。基礎知識など、しっかり勉強しないとよい経営者になれないと思いました。

奥田 獨協大学では何を勉強したのですか。

平田 自分が一番弱いところだった会計、それから経営組織論、情報論、データベース、マーケティング、基礎となる経済理論などなど、たくさん勉強しました。

奥田 そしてワンダフルフライを設立された。何年のことですか。

平田 2003年です。事業内容は何をやるのか決まってなかったのですが、とにかく会社をつくろうと思って立ち上げました。

奥田 創業時の仕事は今と同じですか。

平田 ほぼ同じです。当時は技術者派遣事業と同時に、中国で成功しているCtripのようなオンラインで航空券を販売する事業も始めましたが、1年くらいで止めました。

奥田 決断が早いですね。止めた理由はなんだったのでしょうか。

平田 日本でのマーケットが小さいからです。Ctripの事業が中国で成功したのは13億というマーケットがあったからです。われわれのマーケットは日本の華人向けのサービスだったので、余計にマーケットを小さくしてしまいました。考え方が甘かったですね。

奥田 確かに日本のマーケットとは規模が違いますね。

平田 でも、失敗は成功のもと、マーケットの規模は成功のカギになることを勉強しました。

奥田 それで技術者派遣に絞られた。派遣先はどのようにして開拓されたのですか。

平田 まず知り合いの日本人に友人を紹介してもらったり、技術者が足りない会社にたまたま巡りあえたり、お客様から評価をいただいて別のところを紹介してもらったりと……。自分からももちろん営業に行きましたが、最初は本当に難しかったです。

奥田 どういうところが難しかったのですか。

平田 IT業界は物売り業界ではありません。まずは信頼関係を築くことが必要です。人と人との信頼関係を構築したうえで初めてビジネスが成り立つと思います。

奥田 その信頼関係はどのようにして構築されましたか。

平田 優秀な技術者を採用して社内教育を行いました。技術力とよい人間性がある社員がいれば、お客様からよい評価がいただけます。そうなれば、「ワンダフルフライは信用できるよ」と横展開にもなりました。ですから社員教育には力を入れました。

奥田 中国の優秀な人たちをどのようにして採用されたのでしょうか。

平田 当時は今のようにSkypeやLINEのようなビデオ通話もなくて、ほとんど現地に行って理工系学部の学生と会い、採用を行いました。場所は上海と大連、上海の方は知り合いも多く、気持ち的には少し楽でしたが、大連は慣れない場所にたった一人で大変でした。でも、東北三省では日本語ができる優秀な理工系学生がたくさんいますのでよくいきました。

奥田 そうやって人材を発掘されてきたわけですね。事業を成功させるにはどんなことが重要ですか。

平田 技術者を採用する時に大切にしているのは、向上心と責任感、そして会社に対する忠誠心をもっているかということです。こういう社員がいるからこそ、お客様とのよい信頼関係が築けてビジネスの成功につながると思います。(つづく)

人生はハッピーフライト。たくさんの人とともに幸せな旅を!――第194回(下)
ワンダフルフライ 代表取締役社長 平田雅子

 

平田さんを支える
お母さまが描いた国絵

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 筆のみで描くのが特徴とされる国絵。お孫さんが通う絵画教室にお母さまがつき添われているうちに、ご自身が描くようになられたのだとか。描かれている牡丹は中国の国花。そういえば平田さんの雰囲気は牡丹に似ている。