中国で二番目の国立大学として1902年に設立された山東大学。初めてコンピュータ学科が設立されたのが1979年という。当時、学生だった石冰先生はその年からコンピュータを学び、卒業後は一貫してコンピュータ教育に携わってこられた。黎明期から中国のコンピュータ教育を支えられた第一人者だ。基本を重視するという教育方針にのっとり、学生には徹底的にコンピュータの八つの基礎を教え込む。15年前の2003年には、学生たちが切磋琢磨する場として、「山東省大学生ソフトウェア設計コンテスト」をスタートさせた。(本紙主幹・奥田喜久男)

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2017.8.23/中国・山東省済南市の山東大学ソフトウェア学院にて

心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
<1000分の第195回(上)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。

80年代初頭から検索エンジンの
インターフェースを研究

奥田 先生はどうしてそんなにふくよかで幸せなお顔をなさっているんですか。

 実は私は若い頃から仏教と道教の教えを勉強しています。そのおかげで、心もからだも豊かにみえるんでしょうかね……。大学を卒業して将来のことを考えていたときにそれらに触れ、以来勉強を続けています。例えば「空」という考え方がありますね。複雑なことは単純に、単純なことは複雑に考える。大きなことは小さな声で、小さなことは大きな声で話す……。そんなことを学びました。

奥田 すばらしい教えですね。何だかこれで今日の取材を終えてもいいような気がしますが……(笑)。まず、先生とコンピュータの出会いから教えてくださいますか。

 1978年に山東工科学院(のちに山東大学に合併)の工業化学科に入りました。翌79年にできたコンピュータの専門学科に編入し、コンピュータに触れるようになりました。文化大革命が終わってすぐの頃です。大学受験が再開し、中国全土で500万人ほどが受験して、合格したのは20万人ほどでした。そこを卒業して大学に教師として残りましたが、まだ知識が足りないと感じて大学院に進みました。いまでいう、検索エンジンのインターフェースを研究していました。どんな言葉を入力すると効率的にヒットするのか、といった内容です。研究にあたって、日本の菊池敏典先生の本はとても役に立ちました。検索エンジンの組み立てや効率の高い運用などを学びました。一冊の本を検索するときに、書名がわからなくても内容の一部から検索できるような仕組みなどを研究していました。

奥田 先生のご専門は、どういう学科になるんでしょうか。

 コンピュータ応用学科です。大学卒業後からずっと教えていました。講師からはじまり、96年に副教授、2001年に教授になりました。当時はコンピュータの教師は少なくて、専門以外にもいろんな学科を教えていました。そのなかで比重が高かったのがデータベース原理です。DOSの時代ですね。CC-DOSやMS-DOSを使っていました。コンピュータウイルスをつくってみたこともありますよ。

奥田 私は1985年に北京でコンピュータの開発者に会い、天津のミニコン工場を取材したことがあります。当時、中国のコンピュータ技術はまだまだこれから、という状況でした。そんななか、石先生は80年代初頭からコンピュータに接しておられたとなると、中国でもとても早い段階でコンピュータに注目しておられたわけですね。

 中国は1956年に国家としてコンピュータの研究開発を始めました。最初は独自の研究を続けていたのですが、80年代に入り、先進諸国の技術を取り入れながら研究していこうということになり、大学でコンピュータ学科を設立するようになったのです。

日本の「電卓」が
コンピュータだと思っていた

奥田 最初にコンピュータに出会ったとき、どんなふうに感じましたか。

 日本製の電卓をみて、コンピュータだと思っていました。当時の中国では誰もがそうだったと思います。

奥田 一番初めに出会ったコンピュータはなんでしょう。

 北京の会社がつくったDJS140というコンピュータが大学にあって、それに触れたのが最初です。メモリは、わずか32KBしかありませんでした。10MBのストレージが冷蔵庫のような大きさだった時代です。その後、卒業論文用の設計で、台湾から輸入したAppleコンピュータを使いました。83年です。84年にはIBMの5550を使っていました。

奥田 大学では、コンピュータをどんな用途で使っていたんですか。

 最初は化学や力学の計算で使っていました。その後、米国から輸入したdBASE IIで管理ソフトを開発していました。人事管理や給与管理、顧客管理などです。中国人民銀行の入社試験や社員の評価試験を管理するソフトも開発していました。FoxProで書いて、その後Visual Basicに移植しました。

コンピュータの八つの基礎を
しっかりと教える

奥田 コンピュータの世界は変化のスピードがとても速い。教えるだけでなく、常に学んでいなければいけませんね。この「学びながら教える」という術をどうやって実践されてきたんですか。

 変化の激しいコンピュータ業界の情報をよく知っているのは、むしろ学生のほうだったりすることもあります。学生は新しいものを取り入れるのが早いからです。教師といえども、学生に学ぶことも必要です。とはいえ40年以上あるコンピュータ発展の歴史のなかで、中核になっている原理は大きく変わってはいません。私はFortranでコーディングはできますが、最近のPythonはよく知らない。重要なのは、基礎の部分をしっかり把握して、その部分を教えていけばいいということです。

奥田 先生のおっしゃるコンピュータの基礎とは、どんなものですか。

 大きく分けて八つあります。コンパイラ原理、オペレーティングシステム、離散数学、データベース原理、データ構造、ソフトウェア工学、コンピュータネットワーク、計算機原理です。

プログラミングは
中学生ぐらいから始めるのがいい

奥田 先生は、15年前の2003年に学生を対象としたプログラミングコンテスト「山東省大学生ソフトウェア設計コンテスト」をスタートさせました。ハードウェアに注目する学者が多いなか、なぜソフトウェアに注目して大会を開いたんですか。

 いまでこそハードウェア部門もありますが、最初からハードウェアのコンテストは難しくてやりにくい。ソフトウェアなら、コンピュータが1台あればできます。比較的やりやすかったんです。テーマも出しやすい。

奥田 日本では、2020年に小学生へのプログラミング教育が始まります。小さな子どもにプログラムを教える効果的な方法はあるんでしょうか。

 例えばロボットなどを使って、動きをコントロールするところから入っていけば、小学生や中学生でもプログラミングを理解しやすいのではないでしょうか。

奥田 囲碁や将棋では、AIが人間よりも強くなりましたが、囲碁だと3~4歳で始めます。プログラムの教育は何歳ぐらいから始めればいいとお考えですか。

 プログラミング言語を使うということで考えれば、中学生ぐらいからでしょう。単に論理的な考え方だけでなく、数学や英語も必要になってきます。小学生ではまだそのあたりが足りません。まず、小さな子どもには興味をもってもらえるようなところからスタートしたほうがいいでしょう、コンテストのようなもので興味を高めるのもいい方法だと思います。今年はハワイの子どもたちも山東省のコンテストに参加するんですよ。(つづく)。

山東人と日本人はよく似ている 済南を広い中国の窓にしたい――第195回(下)
中国・山東大学ソフトウェア学院 副院長 教授 石 冰


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山东人和日本人很像 期待济南能成为辽阔中国的窗口――第195回(上)
 

友人にもらった
源氏物語

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 日本の古い映画はほとんど観たというほど、日本文化にも造詣が深い石先生。文学にも通じている。15年前に友達からもらった源氏物語の本をいまでも大切に保管している。