尾内さんは、「カミオカンデ」がある神岡(飛騨市)で粉末冶金の工場経営をされている。早い時期から電算機やコンピュータが趣味だった尾内さんはあるソフトに出会い、人生に新たな1ページを加えることになる。ソフトの名は「ファラオ」。ヴァル研究所創業者の島村隆雄さんが開発したパソコン用データ処理ソフトである。「やさしさがないとあんなソフトはつくれない」と尾内さんはいう。残念ながら開発者の島村さんは20年前に55歳で早逝されたが、そのイズムは尾内さんのなかに生き続けている。
(本紙主幹・奥田喜久男)

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2017.8.16/BCN 22世紀アカデミールームにて

心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
<1000分の第196回(上)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。

専務に直訴して
「ぱぴろじすと」に入会

奥田 「カミオカンデ」見学の際には大変お世話になりました。

尾内 こちらこそ遠いところまでおいでいただき、ありがとうございました。

奥田 今日は尾内さんのことと「ぱぴろじすと」のことをうかがわせていただければと思っています。一応おさらいしますと、「ぱぴろじすと」というのはヴァル研究所の創業者である島村隆雄氏が中心となって開発したソフト「ファラオ」と「ナイル」のユーザーが自発的に集まって始められた技術交流組織ですよね。

尾内 私はファラオを使って感動して、「ぱぴろじすと」に加えていただきました。

奥田 ファラオとの出会いを覚えていらっしゃいますか。

尾内 当時NECの98を使っていて、何かの雑誌でファラオの広告を見たんですが「これはすごい!」と。直感みたいなものです。

奥田 それで買われたわけですか。

尾内 当時は近くにお店がなくて直接ヴァル研さんに注文したんだったかな。とにかく入手して使ってみたら、それがもうおもしろくて……。

奥田 すぐに動かせましたか。

尾内 何の問題もなく。もう、ほんとにおもしろくて、なんとすばらしい道具なんだと感動しまして、「ぱぴろじすと」の全国大会があると聞いたのでさっそく参加したんです。

奥田 すごい行動力ですね。ちょっとゆっくり当時のことを教えていただけますか(笑)。ファラオの何に感動されたんでしょう。

尾内 一番感じたのは、仕事がわかっている人がやりたいと思うことをちゃんと形にできるツールだということです。

奥田 “仕事がわかっている”というのは、経営者としての仕事ということですね。

尾内 そうです。仕事がわかっていて自分がこうしたいと思っていることがあれば、ファラオはそれを実現してくれる。実はそれまでにもベーシックにトライしたことがあったんですが、どうも面倒だなと感じていました。

奥田 それがファラオだと簡単だった。

尾内 こうしたいと思っていることを順々に入れていけばできたんです。

奥田 何か月くらいで業務に使えるようになったんですか。

尾内 ファラオの持つ機能がすばらしいですから、そんなにかかりませんでした。

奥田 それで感動されて大会に出てみようと思われた。

尾内 大会があることを知って、「ぱぴろじすと」の仲間に入れていただこうとしたんです。ところが、紹介者がいないと入会できないという時代だったんです。紹介者はいない、でもどうしても入りたい。それで主催されていたヴァル研究所の専務(山田靖二さん)の方に直訴しました。

奥田 なんと積極的な(笑)。

尾内 紹介者がいないので、専務さんに保証してくださいとお願いしたら「わかりました。いいですよ」と。

奥田 すごいですねえ。尾内さんのパワーに圧倒されたんでしょうね。

尾内 そうかもしれません。それでメンバーに入れていただいて、島村社長にもお会いすることができて。

奥田 楽しい時代でしたね。

ファラオに出会って
一気に業務がパソコンにシフト

奥田 尾内さんがコンピュータに出会われたのはいつですか。

尾内 自分で最初に買ったのは、カシオの電算機です。いやいや小数点のない電卓です。

奥田 なんのために買われたのですか。

尾内 趣味ですね。何をしたという覚えはないですねえ。

奥田 高かったでしょ(笑)。

尾内 でもそういうものが好きだったんですね。

奥田 好きになるきっかけがあったんですか。

尾内 中学生くらいの時でしたかね。父のいとこにあたる人が東京の大学を卒業して、今でいうベンチャーで真空管のコンピュータをつくり始めたんです。

奥田 尾内さんが中学ということは1950年代ですよね。それは早いなあ。その方のお名前は?

尾内 岡崎嘉春といいます。ベンチャーで立ち上げた後、富士通に吸収されて、その後はずっと富士通系列の会社にいました。

奥田 え? 岡崎嘉春さんですか。コンピュータの歴史に名前が出てこられる方ですよ。直接会っておられたんですか。

尾内 そうです。帰郷するとしょっちゅう家にも泊まりに来ていて、いろんな話をしてくれるわけです。今思えばハードディスクのことなんでしょうが、「IBMのマシンをバラしたら何やら穴が空いてる。なんだこれはとずっと考えたら、スムーズに回転するための穴だった。その穴がないと回転が安定しないんだ」とか。その少し後には「今はゆらぎの世界を研究しているよ」など。おもしろい世界だなと思いました。

奥田 それは大きな影響でしたね。最初の電算機を買われたその後は?

尾内 どこのだったかな。

奥田 当時だと、タンディ・ラジオシャック、コモドール、アップル……。沖電気も出してましたね。

尾内 多分沖電気だったと思います。記憶メディアがなくてテープレコーダーの小さなカセットを記憶媒体にしてましたね。

奥田 それは仕事で買われたんですか。

尾内 いや、趣味です。

奥田 尾内さん、ずいぶん投資してますねえ。奥さんに怒られませんでしたか。

尾内 大丈夫でした(笑)。

奥田 その頃、神岡にパソコンショップはあったんですか。

尾内 ないです。パソコン関連の本をみつけるのも大変でした。

奥田 となるとパソコンやパーツはどこで買われるんですか。

尾内 富山に1軒だけ先進的なお店がありましてね。パーツは高山に1軒あったかな。

奥田 富山に買い物に出られるんですか。

尾内 神岡の行政区は岐阜県ですが経済圏としては北陸ですから。でも富山にもそんな多くは置いていませんでしたから、東京にもよく通いました。

奥田 なるほど。最初は趣味だったのがだんだん仕事にシフトされていって。

尾内 業務用ソフトが出始めた頃でいろいろ買って試していました。ベーシックを組んでみたのもその頃ですね。そしてファラオに出会って一気に業務の一般管理や経理に使うようになりました。
(つづく)

人としてのやさしさがないと あんなすばらしいソフトは つくれません――第196回(下)
和佐保加工 代表取締役会長 尾内治良

 

自家製特殊雲台と
愛用のカメラ「シグマSDQ」

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 「レンズのノーダルポイントと、可動XYZ軸を一致させる特殊雲台で、一つの被写体を縦5段、横6列、都合30枚位で撮影して、現像の段階でステッチングし、超高画質写真を作るための道具です」と尾内さん。