2017年7月21日、サイボウズが上海で「Cybozu Days 2017 Shanghai」を開催した。そのイベントの最後にサッカー日本代表元監督の岡田武史氏が「中国で勝つための覚悟」と題し特別講演をした。中国のサッカーチームを指導する思いは、「日本チームを強くするには、中国チームを強くしないといけない」と何かに書かれていた。それは、中国に出て事業をすると決めた私の思いにも通じるものがあった。当日の講演を聞き、さらに共感することがあった。その伏線から今回の対談となった。
(本紙主幹・奥田喜久男)

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2017.12.21 / FC今治 事務所にて

心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
<1000分の第200回(上)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。

国籍は関係ない、
サッカー仲間として信じる

奥田 サイボウズの上海のイベントでの講演では中国に対する思いを語られましたが、中国人と一緒にサッカーをやるというのは、何か違うものがあるのでしょうか。

岡田 これは大変ですよ。価値観も違うし、中国でサッカーをやる子は金持ちの働かなくていい子か、地方の貧しい子が多いんです。ほとんどが地方から集められてきた貧しい子で、お金持ちでも片親で、お金を出すから寮で面倒見てくれと、そういう子がチームに入ってくるんです。そこでは全員寮生活です。だから、子どもの頃から管理されていて、何時に起きろ、飯くえ、練習しろって。そうなるとかれらにとって、すべてが義務なんです。練習の初日に「監督、全員集合しました」と、中国人のコーチが言いにきたので、グランドに行ったら、全員が長椅子に座っているわけです。日本ならみんなでボール蹴ってますよ。ピッと笛を吹くと、おもむろに練習をやるんだけど、終わったらサーとみんな帰ってしまう。

奥田 そこをどうやって変えていかれたのですか。

岡田 おまえ、サッカーを始めたとき楽しかったろう。ゴールを決めたとき、やった! と思ったろう。それを思い出せと。サッカーは義務じゃあ、絶対強くならないと説き続けました。何かあるとオーナーは、「なんで監督は殴らないのか、殴らないとわからない」と言い張ったけど、全員を寮にぶちこんでいるからだめなんだ。自由にしろ。出たいやつは出ろということにしたら、わっとみんな出ちゃった。

奥田 解放されたわけですね。

岡田 おまえらを信じる。中国人は違うとみんなが言うけど、ぼくはサッカー仲間として、おまえらを信じると言いました。しかし、いろんな問題が大噴出しましたね。試合の前日、前泊したホテルから抜け出していなかったりとか、国の親が死んだからって試合の遠征に行かなかったやつが、町中で遊んでいたとか。「ほらみろ監督、そんなことをしたからだめなんだ」とさんざん言われたけど、ぼくはこいつらを最後まで信じると言い張った。いろんな事件が起こって、一人はもう俺の前に二度と顔を出すなと言って首にした。試合前にホテルを抜け出して朝まで遊んでいた五人の中の一人なんだけど、一度は許したが、もう一回裏切ったら許さないといったのに同じことをやった。給料は全部やって辞めさせた。

奥田 サッカー仲間として信じるというのは、心に響きますね。

岡田 そういうのを見てだんだんチームは変わってきた。それで一年半たったときには、グランドに30分前からみんな出てボールを蹴っている。ぼくは2年しかチームにいないんだけど、絆っていうか、この前も北京で講演していたら、その時の選手が八人も集まってきてくれて、晩飯を一緒に食いましたよ。

奥田 何がかれらの心を動かすのですか。

岡田 日本人と同じにふつうに真剣に付き合っていただけですが、信頼されているのを感じるのじゃないですか、計算して付き合ってないということがわかるのじゃないですか。

 チーム内に派閥があって、それぞれ相手を中傷するんですよ。ぼくは頭にきて、主力の当事者二人をメンバーから外した。そしたら大問題になって、オーナーまで出てきたが、ぼくは曲げずに翌日の試合を若手主体のチームで挑んだ。相手は強豪でそれまで一度も勝ったことのないチームで、これで負けたらぼくは確実に首です。そこまで逆らったんだから。それを若いかれらは感じていたんでしょうね。この人は首を賭けてやっていると。かれらはめちゃめちゃ頑張って勝ったんです。

ジョホールバルの
歓喜の裏で

奥田 国を越えて通じるものは通じるんですね。そのプロセスというのは、“ジョホールバルの歓喜”と似ていますか。

岡田 ジョホールバルは初めての監督のときだし、そんな余裕はなかった。ただ、最後に腹をくくっていたというのは同じですね。

奥田 ドラスティックな手を打たれますね。

岡田 ぼくだってみんなにいい人だと言われたいし、好かれたいですけど、11人しかピッチに送り込めないんです。23人しか、ワールドカップに連れて行けないんです。落としたやつは、このやろうと絶対思うんですよ。ぼくは仲人を絶対にしないですし、選手といっさい酒を飲まない。酒飲んでわいわいやっていて、おまえ首とはよう言わないですよ。自分は浪花節的で、自分の弱さを知っていますから。選手もこういうサッカーがやりたいと言ってきます。正しいと思ったら取りいれるし、違うと思ったら、自分は日本代表の監督として全責任をもって“こういう”サッカーをやる。だから、おまえがやってくれたらうれしい、けどどうしてもやれないというのなら、残念だけど出て行ってくれと、このスタンスを、どんな中心選手でもはずさない。最後の最後は腹をくくっていますから、口に出していわなくても、選手は感じますよ。ジョホールバルのときも、中国の最後の試合のときも一緒でした。

奥田 いつから、そういうふうに腹をくくれるようになったんですか。

岡田 ジョホールバルがはじめてです。加茂周監督から受け継いで、41歳でいきなり監督になって、初めての監督が日本代表で、こんなプレッシャーに絶対に耐えられないと思いましたよ。ぼくは有名になるとは思ってなかったから、電話帳にも名前を載せていましたから、脅迫状、脅迫電話がとまんないですし、いろんな人はくるし、家の前には24時間パトカーがいました。子どもが危険だから学校の送り迎えをするようにといわれて、家内が毎日送り迎えして、家でテレビみて、ぼくがぼろくそいわれて子どもは泣いていたりと、ぐちゃぐちゃでした。絶対耐えられないと思った。ところが逃がしてもらえない。国立競技場では暴動が起きました。最後の試合にジョホールバルへ行ったときは、家内に電話しました。明日もし勝てなかったら日本に帰れない。海外でほとぼりがさめるまで住まなくてはいけないと。

奥田 そこまで追い詰められていたのですか。

岡田 だけど、もういいと、自分はここまでやった。明日は今もっている力をすべて出す。命がけでやる。それであかんかったら、力が足りないのだからしょうがない。ごめんと謝ろうと思った。でも、自分のせいではない。ぼくを選んだ会長、あいつのせいやと。ほんとにそう思った瞬間に完全に開き直ったんですよ。このときがぼくの人生の転機だった。腹がくくれるようになった瞬間ですね。追い込まれて追い込まれてどんぞこにいって、のたうちまわっているときに、そんなの知るかという感じですね。それと、日本中の人に批判されても家族だけは、ご苦労さんと迎えてくれる自信があった。あれがなかったら耐えられなかったです。(つづく)
 

FC今治の企業理念

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サッカーの感動や共感、夢で貢献していく。
信念とは人から与えられるものではなく、
自分で築くものだ。