岡田さんといえば“ジョホールバルの歓喜”をだれもが連想するだろう。あれから20年が経った。その間、Jリーグのクラブチームの監督としてチームを優勝に導き、2007年には再び日本代表の監督に就任し、10年のW杯南アフリカ大会ではベスト16に進出させた。中国にも渡ってチームを指導した。その岡田さんが今、人口16万5000人の四国今治にいる。J3入りを目指す『FC今治』の代表として。岡田さんは何を構想しているのだろうか。街はずれの田園地帯にある民家を利用したクラブハウスでお聞きした。
(本紙主幹・奥田喜久男)

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2017.12.21 / FC今治 事務所にて

心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
<1000分の第200回(下)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。

離れても離れても、
サッカーに帰ってきた

奥田 サッカーとの出会いはいつ頃だったのでしょうか。

岡田 1968年のメキシコ五輪で日本が銅メダルをとり、サッカーブームが起こって、休み時間にボールを蹴り始めました。小学の6年頃だと思います。リフティングも最初は2回くらいしかできなかったのが、翌日3回になり5回になり、やればやるほど、サッカーは上手くなるんです。その達成感が快感で、はまっていきましたね。

奥田 上手い下手の素質みたいなのは最初からあるんですか。

岡田 ユース世代でも日本代表に選ばれましたが、ぼくは素質も身体能力も一番なかったんじゃないでしょうか。ただ、読みとか、頭を使っていろいろやってたんで、そういうところでなんとか生きていた。みんなに声で指示を出してオフサイドトラップをかけるとか、狙い通りに相手選手を追い込んでいくとかですね。

奥田 頭脳派のデフェンダーですよね。

岡田 頭脳以外、使うものがなかったからです。だから、サッカーの解説書を読んだり、強いチームの練習を見に行ったり、海外の試合をテレビで観て研究したりしてました。高校でも、朝早く学校に行って一人でボール蹴って、昼休みは友達とボール蹴って、部の練習でボール蹴って、サッカー漬けの日々でしたね。

奥田 サッカー漬けの毎日で、大学は早稲田の政経、難関だと思いますが。

岡田 高校3年の時にユース代表に選ばれましたが、入試には落ちました。それで一年浪人して、本当に勉強に集中して、運よく入れたというとこです。

奥田 大学ではサッカー部に入らなくて、同好会に入った。その後サッカー部に入られますが、きっかけはなんだったんですか。

岡田 関東大学サッカーリーグを見に西が丘競技場に行ったときに、日本サッカー協会の専務理事だった平木隆三さんに出会って、「お前なにをしてるんだ」と言われて、浪人して早稲田に入りました、今、同好会でやってますと言ったら、「何やってるんだ、なんのために、お前を、高校生なのにユース代表に選んで連れて行ったと思うのか、明日、協会に来い」と言われて。行ったら、長沼健さん岡野俊一郎さん、平木さんという三巨頭が並んでおられて、何を考えてるんだとすごい怒られて、当時は純粋だったから、悪いことをしたと思って、サッカー部に入ったんですよ。

奥田 サッカーがお好きなんですね。

岡田 当時は、サッカーだけじゃないというような、はすに構えた自分がいて、でも離れようとしても、いつも戻ってくるところをみると、やっぱり好きなんですね。

喜ばしてあげたい
笑顔にしてあげたい

奥田 学生結婚されました。熱い気持ちがないとできませんよね。

岡田 フットワークが軽いんです、深く計算したり考えないんですよ。だから、今治にくるのも、何も考えずにきたし、代表監督になるのも計算していたら、絶対に受けられない。直感で動くほうなんです。だから、家内とも大学生の時に知り合って、プロポーズしたわけです。生活のことなんて想像もしなかった。

奥田 直感とフットワークなんですね。

岡田 FC今治を10年で30億円の会社にすると言っている。やってみようと思うことがあったらやる。失敗したらやめる。深く計算して、他がこうだからこうだとやったら、“やらない”という判断になるん
です。

奥田 10年で30億ですか。今で何年になるんですか。

岡田 3年が終わったところです。失敗の連続ですよ。でもなんとか潰れないで、3年連続黒字で終わりそうなんで、上等じゃないかと思ってます。

奥田 いま、何人おられるんですか。

岡田 40人くらいになりますね。ようやく、今治のみなさんに受け入れられてきた。ぼくらのビジネスというのは、認知されて、愛してもらって、そしてチケットやなにか購入してもらって、リピーターになってもらう。この4段階あると言っているんですけど、今やっと第二段階に入ってきた。

奥田 認められるための活動はどうされているんですか。

岡田 一年目は、スタジアムにきてもらおうと必死にやったんだけど、最高2000人。雨が降ると900人とか800人になる。雨でも満員にしたいといろんなことをしました。自分の車にポスターを貼って走ったし、駅前でチラシ配ったり。でも、だめだった。考えたら1年経ったけど、今治に友達ができたやつは、だれもいなかった。俺たちがこの町に出ていかなくてはいけないんだと思いついた。町にでよう、友達をつくろうと。ぼくも地元の人と飯をくったり酒を飲んだりするようになって、だんだん認められてきた。巡回指導や指導者育成も無償で始めた。こちらから町の人のためになることをしてあげて、はじめてスタジアムに来てもらえるわけです。

奥田 今が3年だと、あと6、7年続くということですか。 

岡田 今はぼくの信用で成り立っている。3年経ったらクラブとしての信用をつくれと、そうしないとだめだぞといって走り続けてきた。少しできかけてきたけど、ぼくが歩みを止めたら、潰れるなというのがわかっている。みんな、岡田さんが最後はなんとかしてくれると思ってる。そうじゃないんだという危機感をもってもらうぐらいにペースを落とさないといけないなと考えている。

奥田 そういう時期にきているということですね。

岡田 来年は50人近くになって、7億6000万円くらいの予算を組む。きちっとした組織として、評価制度もつくって、労務管理もして、個人事業ではなく企業として動き出さなくてはいけない。このハードルを乗り越えられたら、残れる可能性はきっと出てくる。

奥田 その情熱の源ってなんですか。

岡田 あんまり考えずにフットワーク軽くやると、みんながついてきて、やめるわけにはいかなくなる。だいたいこのパターンです。ついてきてくれたスタッフ、コーチは条件のいいところを辞めて、いつ潰れるわからないぼくの会社にきてくれた。そいつら、その家族、ようやく認めてくれだした今治の人たちを、喜ばしてあげたい笑顔にしてあげたいという思いですね。スタジアムに来てくれた人はほとんどが楽しかった、ありがとうって言ってくれる。それだけで苦労がふっ飛ぶんです。

奥田 ジョホールバルの勝利インタビューで岡田さんは、「感謝」の二文字とおっしゃいましたが、それにつながりますね。

岡田 「次世代のため、物の豊かさより心の豊かさを大切にする社会創りに貢献する」が企業理念です。“心の豊かさ”というのは、資本や売上高と違い目に見えない。ぼくらは売るものがない。夢や感動や共感で貢献していく。ここに集まってきている連中も、ぼくが言った10年後にJ1で優勝するとか、日本代表を5人だすとか、そんなビジョンに共感したんじゃなくて、この社会をなんとかしたいという思いをもって集まってきている。だから、成功しなくてはいけない。ただ、それだけの思いでやっています。

奥田 覚悟が伝わってきます。今日はありがとうございました。
 

こぼれ話

 長い記者生活のなかで、どれだけの人に会っただろうか。取材の現場は初見が多く、臨む時は長年の友に接する気持ちだ。

 “岡ちゃん”の場合は初見であっても、質問を重ねるうちに回答が予想できた。それもそのはず、会いたい人だったので映像や活字を通して私の描く岡田像はできていた。それでも対面の喜びは極上だ。何よりもその人のオーラを浴びるからだ。“岡ちゃん”のそれは太陽だった。

 そのエネルギーの根幹は何だろう。質問を繰り返すうち、“岡ちゃん”はこう切り出した。
 
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 大学時代に政経学部のゼミでマルクス経済学の堀江忠男先生に出会った。先生は1936年のベルリン五輪のサッカー日本代表の選手だった。当時は早稲田のサッカー部の部長。先生は、「自分にとってサッカーはなくてはならないものだけれど、一番大事なモノではない」とおっしゃっていた。てっきり一番は学問だと思っていた。ある日先生のご自宅に招かれた。最初の奥さんを病気で亡くされ、再婚されて、まだ子どもが小さかった。その子が先生の頭にじゃれついていた。めちゃめちゃ怖い先生だったから、この子、今に怒られるなぁと思っていたが、先生は怒らない。そのときにふと、「先生が一番大事だとおっしゃっていたのは“愛”ですか」と言っちゃった。そしたら先生が「そうだ」と、「おれは人類愛のために学問もサッカーもやっている」とおっしゃった。ふるえるほど感動した。

 私は驚いた。これほど深い話が20歳前後で口についてでたことを。“岡ちゃん”の根幹は「これだ」と思った。
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