今回の加藤市長との対談は、30年以上親交のあるシステックスの北村正博社長との縁で実現した。北村さんは、加藤さんが長野商工会議所の会頭を務めていたときの副会頭で、加藤さんの市長選出馬にともなって会頭を引き継ぎ、長野市の商工業振興に民間の立場から尽力しておられる。この連載はこうした人と人のつながりで成り立っているとあらためて思う。加藤さんにいただいた名刺を見ると、大きくデザインされた「縁」の文字が目に飛び込んでくる。(本紙主幹・奥田喜久男)

2018.4.13/長野市役所にて

創業300年の老舗企業 その当主が市長に転身

奥田 加藤市長は実業界のご出身ですが、代々、この信州の地で長年にわたって事業を続けてこられたとうかがっています。

加藤 そうですね。享保2年(1717年)の創業ですから、もう300周年を迎えました。

奥田 当初はどんな事業をされていたのですか。

加藤 初代がこの年に浅川村(現在は長野市の北部)から善光寺のそばの長野市東町に引っ越してきて、半農半商で塩の廻送問屋を始めました。長野県は海なし県なので、農業をやりながらこうした商売もしていたんです。

奥田 商家としての家訓のようなものはあるのですか。

加藤 「家訓」はありませんが代々「継続こそ力」「変化に対応する」などの社風があり、今日まで続けてくることができたのは、一つの商売にこだわるのではなく、時代に合わせて柔軟に商売を変えてきたことにあると思います。時代の潮流を見きわめ、「開店」と「閉店」をドラスティックに断行するという選択をずっと続けてきたのです。

奥田 その後、どんな事業に変わり、現在に至ったのですか。

加藤 戦前から戦後にかけては、石炭やコールタール、クレオソートなどを扱っていました。当時はトタン屋根の木造の家が多く、腐食防止のために屋根にはコールタール、木にはクレオソートを塗っていました。東京ガスのコークス工場が長野市にあった関係で、コールタールとクレオソートは手に入りやすく、全国の金物店に卸していました。セメントをはじめとする建材の販売は、この商品と並行して取り扱いを始めました。

奥田 それは何代前くらいの話ですか。

加藤 私が9代目ですから、7代目である祖父と8代目である父の時代ですね。

奥田 ご自身は学校を卒業して、すぐに家業に入られたのですか。

加藤 大学卒業後の2年間は、父の友人が経営する東京の同業者の会社に勤めていました。いずれ長野に帰って跡を継ぐということは決まっていましたから。

奥田 2年間の修業の後、長野に戻られたと。最初はどんなポジションでしたか。

加藤 取締役社長室長という肩書です。

奥田 20代でいきなり取締役ですか。

加藤 でも、その頃は売上高が約10億円、従業員30人ほどの商店でしたから。

奥田 いまは?

加藤 年商はグループ全体で500億円くらいで、社員は800人ほどいます。

奥田 その伸びは、これまで経営されてきた結果が現れているわけですね。

加藤 そうですが、でも、もう経営から離れて5年になりますから、浦島太郎になりつつありますね。

奥田 9代目として社長を継がれたのは、いつのことですか。

加藤 1985年です。

奥田 若いうちに継がれたのですね。

加藤 42歳のときでした。父に万一の事があってから継ぐのでは、取引先や銀行の信用など何かと大変ですから、親父が元気なうちに若社長として見習いをすることは重要だと考えていました。

奥田 なるほど。ということは、25年以上経営者としての経験を積まれてから市長になられたと。

加藤 そういうことになりますね。

事業を始めるよりやめるほうが難しい

奥田 事業をやっておられたときの目標というか、夢は?

加藤 目指したのは、無借金の県内有数の会社にするということです。そのために、親子兄弟が力を合わせて無我夢中で働いてきました。

奥田 無借金経営がベストであると。

加藤 要するに、銀行に頭を下げないで思い切って思うように投資ができるということです。

奥田 とてもわかりやすいですね(笑)。

加藤 社員とともに、同志として一緒に頑張って会社をよくしようとやってきました。会社の利益が上がるのに合わせて社員の待遇の改善も行ってきました。

奥田 時代に合わせて変化することが、これまで事業を続けてこられた理由とのことでしたが、事業を変えていくとき、加藤家流のノウハウはあるのですか。

加藤 加藤家流かどうかはわかりませんが、社員に対しては「自分がやりたいと思うことは何でも挑戦してみろ!」と言ってきました。

 私どもも、経験値でその提案の成否は、ある程度わかりますので、もし失敗しても会社本体に大きな傷がつかない程度ならいいじゃないかと、大概はやらせます。

奥田 なるほど、大きな傷を負うのでなければ積極的にやれと。それでは逆に、事業から撤退する判断はどうされるのですか。

加藤 83年にホームセンター事業を始めたのですが、2005年にその事業から撤退しているのです。撤退時の売上高はおよそ170億円、利益が5億~6億円ほど出ていました。

奥田 十分儲かっているのに売却された。

加藤 はい、それには理由があります。03年の初めの頃、私は、本久本体より大きな会社になってきた本久ケーヨーの経営が、万一おかしくなった場合に、本久本体まで巻き添えを食う事態になりはしないかと本当に不安に襲われました。

 また、小売業は競争が余りに激しく、ロットの小さい企業は今いくら業績が順調であっても、将来も生き残れる保証はないと考えて、ケーヨーに持ち株を売却して、サッと撤退したのです。

 当時、銀行の頭取から「本久さん、いったい何を考えているのだ。こんな優良な会社を手放して」と叱られましたが…(笑)。

奥田 それは、経営指標や統計に基づいて判断されたのですか。

加藤 勘ですね。社会のいろいろな事象を見ていて、今はいいけれど、5年後、10年後にこの会社は大丈夫かなと。そう思ったらできるだけ早く決断しないといけません。事業を始めるよりもやめる決断のほうが大変だからです。

奥田 撤退の決断は、その一件だけですか。

加藤 ほかにもたくさんあります。最も大変だったのは、上越市に大型店をつくった時のことです。当時、大店法という法律の規制があって、出店するまでにものすごく時間がかかりました。上越店は6、7年かかってようやくオープンにこぎつけたものの、計画した時とは社会情勢が大きく変貌していました。それでも、今までの義理があって出店を止めることができずに開店したのですが、毎月、予定を大幅に上回る赤字を計上する始末。このままでは会社がおかしくなると、翌年、1年足らずで、閉店しました。

奥田 どれくらいの期間で撤退を決断されたのですか。

加藤 オープンから3か月です。ただ、撤退するにも受け入れてくれた商工会議所や地域と折衝しなければならないし、地権者や採用した従業員に対して丁寧な説明も必要で、時間がかかります。さきほどからお話ししているように、やめるということは本当に大変なことなのです。
(つづく)
 

『史記の人間学』 (神子 侃 著)

 商売をやっていくにあたって読むべき本として、読書家のお父様からいただいたもの。「いくら機械が進歩しても、人間の考えは古代からいまに至るまで変わらないということがよくわかる」と加藤さんは読後感を語る。
 
心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
<1000分の第215回(上)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。