子どもの頃から運動神経抜群で、どんな競技でもこなしてしまう木内さん。スキーの大会に出て、もらった賞状やトロフィーは山のようにあるそうだ。「大会に出て優勝し、トロフィーがほしいと思いますが、いざもらって家に持って帰れば、ただのガラクタです。もう獲ったからいいと、気持ちが完結してしまうんですね」と語る。モノを持つことへのこだわりは皆無で、その時々で一生懸命やるだけという恬淡とした態度は、男として相当にカッコいいのである。(本紙主幹・奥田喜久男)

2018.4.13/長野県飯山市の六兵衛にて

スキーで先生に勝ってお墨付きをもらった小学生

奥田 現在は、和食居酒屋“六兵衛”を経営する木内さんですが、かつてはスキーの日本代表選手として活躍され、そしてモーグルの里谷(多英)選手が金メダルを獲得した長野五輪では日本代表チームのコーチを務められたそうですね。まずは、幼少の頃のお話から聞かせてください。

木内 私にとって、スキーは子どもの頃からいちばん身近な娯楽です。この飯山は雪国ですが、昔は家も外も関係ない玄関の造りになっていましたので、当時は家の中でスキーを履いて、そのまま雪の中に出ていく感じでしたね。

奥田 そうした環境で育ったので、スキー選手になられたと。

木内 そうですね。この飯山や野沢温泉、山ノ内などは地の利もあり、強豪がひしめいています。この近くに実家があるジャンプの竹内択選手のお父さんと私は飯山第一中学校の先輩後輩の関係なのですが、竹内さんはジャンプ、私はアルペンで中学生の全国大会に出ました。その出場は、飯山一中では何十年ぶりという快挙でした。

奥田 全国大会に出られるレベルならば、相当に鍛えていたのでしょうね。

木内 小さい頃からスキーをやっていたことに加え、仲間との遊びも、木登りだったり山登りだったり、泥んこになって転がったりとか、そういういろいろなことが土台となって、体力がついたり敏捷性が養われたのだと思います。あとは、しっかりとサポートしてくれた方々のおかげですね。

奥田 小・中学生のスキーのサポートというと、どんなことをするのですか。

木内 合宿や競技会場への送迎から始まって、現地での環境整備や選手に対するアドバイスなど、さまざまなことがあります。効率のいいトレーニングは、上達させるためには欠かすことができません。いまは分業してやっていますが、当時は、例えば私の担任の先生が、一から十までそうした面倒をみてくれたのです。

奥田 そうしたサポートがあったとしても、木内さんは幼い頃から相当な実力をもっておられたのでしょうね。

木内 小学生のときに習ったのが、幸いなことにスキーが得意な先生でした。小学生ですから、その先生と競争してもなかなか勝てないのですが、先生に勝った小学生は、その後みんな有名なスキー選手になっているんです。

奥田 木内さんも先生に勝ったと。

木内 はい。「おまえはおれに勝ったのだから、きっといいところまで行くよ」というお墨付きをもらいました。こうしたサポーターのおかげで、自分の力が引き上げられたのだと思います。

奥田 レベル的には、どのくらい引き上げられたのですか。

木内 片田舎の単なるスキー好きの少年が、全国大会で一桁順位に、レベルを引き上げられたということですね。

奥田 それはすごい!

スキー部に所属せず一人で大会に出場する

奥田 中学で全国大会なら、高校でもかなり活躍されたのでしょう。

木内 ところが、私はちょっと変わっていまして、高校に入って3カ月だけスキー部に在籍して、その後バスケットボール部に移ったんです。

奥田 全国レベルなのに?

木内 中学のときも、はじめはスキー部ではなく陸上部でした。冬になってスキーの大会に出場させてもらい、そこで結構いい成績を残すことができたので、スキー部に入ったんです。それで中学2年生のときは、夏から本腰を入れてスキーのトレーニングをしたのですが、3年生になったらスキー部の顧問の先生が代わってしまいました。新しい顧問は大学までバレーボールをやっていた先生で、結果的に今度はバレー部に引き抜かれました。それで、高校に入って、やっていないのはバスケットだと(笑)。

奥田 そのあたりは、まったくこだわらないということですか。

木内 それだけじゃなく、卓球部の練習にも参加したこともありました。

奥田 どの競技でも、できてしまうわけですね。

木内 どの部員たちとも、対等に勝負することができました。あと、柔道もちょっと強かったんですよ。高校時代、県で2位の選手とやって負けたことはありませんでした。

奥田 怪物みたいな人ですねえ(笑)。

木内 いろいろな競技をやりたかったということもありますが、高校でスキー部を3カ月で辞めてしまったのは、家業、つまりこの六兵衛を継ごうと思っていたからなんです。

奥田 それはどういうことですか。

木内 私が進学した飯山北高校(現・飯山高校)でスキー部に入り、ある程度の成績を収めると、場合によっては大学までレールが敷かれてしまうのです。北高はインターハイ優勝の常連で、長年の伝統があります。飯山出身の選手だけでなく、野沢温泉や山ノ内の強い選手は、越境してでも北高を目指します。

奥田 スキー競技の名門なのですね。

木内 それだけに、用具メーカーを含めて周囲のサポートが手厚いので、高校3年間だけでスキーを辞めるわけにはいかなくなるわけです。スキーを続ける以上は大学に進学しなければいけませんし、お金もかかりますから。まず、そこのところを考えました。

奥田 ということは、高校ではあっさりとスキーを辞めて……。

木内 でも実は、冬になると出られる大会には一人で出ていたんです。北高の名では出られないので、自分のチームをつくって。北高は選手層が厚くて、ランキングによっては大会に出られない部員がいます。そういう部員は、いわば二線級の大会に出るのですが、そういう大会に私は一人で出ていました。

奥田 それはどんな気持ちで?

木内 いや、スキーがただただ好きだったからです。「なぜ、木内はスキーを辞めたのか」とみんなから不思議に思われるくらい好きだったので、所属していたバスケット部の先生や先輩も応援してくれました。1年生、2年生のときに出た大会では、北高のスキー部員に負けなかったですね。

奥田 どういうチームをつくったのですか。

木内 チームといっても一人ですが、このときつけたチーム名は「うさぎさんレーシングチーム」でした。

奥田 えっ、うさぎさん?

木内 うさぎさんレーシングチームなんていう名前でなめられて、いいタイムが出たらおもしろいじゃないですか。「どうしてうさぎさんが強いんだ」と言わせてやろうと思ったんです(笑)。
(つづく)
 

飯山の名刹、正受庵(臨済宗)

 松代城主真田信行の庶子と伝えられる臨済宗の再興者、道鏡慧端が終生過ごした庵。修行を目的として建立された寺のため檀家がなく、近年まで自給自足・托鉢で受け継がれてきた。木内さんは「姿形よりも本質を見抜き、まだまだと思い、また、今日一日と思い精進する」正受庵の精神性“正受不受”に感銘を受け、心のよりどころにしていると語る。
 
心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
<1000分の第219回(上)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。