外資系企業のカントリーマネジャーという仕事には、日本の一般的なビジネスパーソンにとって、どこか分かりにくいイメージがある。もしかすると「ある日、超エリートのMBAホルダーが着任し、四半期決算の数字だけをシビアに吟味し、部下に対しては冷酷無比な命令を下す」というようなマネジャー像を想像する向きもあるかもしれない。でも、実際にその一人である中西さんにお会いすると、それは一面的な見方であると気づく。人をとても大切にされていることが、話の端々から感じられるからだ。(本紙主幹・奥田喜久男)

2018.6.5/東京都港区のソフォス本社にて

プロのベーシストを目指して米国西海岸に

奥田 中西さんは、多くの外資系IT企業で経験を積まれてこられましたが、このソフォスは何社目ですか。

中西 5社目になります。ソフトウェアAG、マイクロソフト、アップル、ネットスイート、ソフォスの順ですね。最初は汎用機向けデータベースの会社に1年ほど在籍しました。1994年に米国から帰ってきてその会社に就職したのですが、当時、汎用機自体がダウンサイジングの方向にありました。

奥田 それで、最初の転職を考えられたと。

中西 はい。当時はUNIXやWindows 95が出た時期で、汎用機は先細りとなり、これからはWindowsが主流になると考えてマイクロソフトの日本法人に転職しました。第二新卒扱いで入社したのが96年です。

奥田 IT系に進まれたのは、学生時代になにか素地があったからですか。

中西 いいえ、大学生の頃はどちらかというと会計や経営管理など、ビジネス系の勉強をしていました。その傍ら、これからは絶対にITの時代が来るだろうと考えて、コンピューターサイエンスも学んだのですが、実はあまりついていけませんでした。でも、気づいたらIT業界にいたという感じですね。

奥田 学生時代から、IT業界が視界にあったと。

中西 当初はIT業界という意識すらありませんでしたが、大学生のときに出たWindows 3.1を見て、マウスを使ってパソコンを操作するなんてすごいと思いました。それが、この業界を意識するきっかけだったのかもしれません。

奥田 そのあたりがコンピューターとの最初の出会いですか。

中西 そうですね。大学時代にレポートを書くときは、パソコンを使っていましたし。

奥田 最初に使ったのはどこのマシンでしたか。

中西 メーカーがどこだったかという記憶は残っていませんね。アプリケーションは、ExcelやWord、あとLotus 1-2-3などを使っていました。

奥田 当時からあまりハードにはこだわらないで、アプリのほうに意識がいっておられたのですね。

中西 正直なところ、コンピューターそのものにはそんなに興味がないんです。興味があるのは、経営やマネジメントで、売り物は何でもいいと昔から思っていました。

 でも、マイクロソフトに入った当時、そこで働いている人たちはパソコンオタクみたいな人ばかりだったので、私もコンピューターをもっと好きになろうと思ったのですが、そこまで好きにはなれなかった(笑)。

奥田 ところで、中西さんはUCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)を卒業されていますが、もともとはどちらのご出身ですか。

中西 大阪生まれの名古屋育ちです。

奥田 どんな少年時代でしたか。

中西 中学まではサッカーに熱中していましたね。あとはマンガもよく読みました。『北斗の拳』とか『キャプテン翼』とか「少年ジャンプ」の全盛期ですね。中学から高校にかけては、バンドにのめり込みました。

奥田 楽器は何を担当していたのですか。

中西 ベースです。実はそれでプロになりたいと思い、高校卒業と同時に米国に行ったのですが、本場のレベルはとても高く、打ちのめされました。自分はとてもプロにはなれないと。

奥田 えっ! ということは、単なる留学ではなく、プロのベーシストになるための音楽修行が渡米の目的だったわけですか。

中西 そうです。2年間ほどロサンゼルスの街で頑張ってみたのですが、結局、途中で諦めまして、大学に入りました。

奥田 米国に行くと言ったとき、親御さんからはなんと言われましたか。

中西 やりたいことをやればいいと。

奥田 引き留められたりしなかったのですか。

中西 それは全然ありませんでした。どちらかというと、本人が気づくまで待つというタイプでしたね。いま思うと、すごくいい親だと思います。

奥田 なるほど。やりたいだけやって、自分で気づいて、自分で歩きなさいと。なんかかっこいいですね。

中西 私もそう思います。私自身は子どもにすごく細かいことまで言ってしまうのですが、これは反省しなければいけないですね。マイクロマネジメントはいけません(笑)。

“多様性”の中で培われたコミュニケーション能力

奥田 米国での生活から、何か得るものはありましたか。

中西 すごくありました。まず多様性ですね。人種差別という言葉は知っていても、米国に行って初めて人は本当に差別するんだなと実感しました。見ず知らずの米国人から、すれ違いざまに「Go home Jap!」みたいなことを言われたりとか。そのときの感情の揺れは大きかったですね。自分がバカにされたのではなく、日本人とか黄色人種といった、もっと広い枠でバカにされたことに、それまで感じたことのない怒りが湧きました。

奥田 それは何歳くらいのときのことですか。

中西 18歳か19歳ですね。

奥田 米国に行って間もない頃ですか。それはショックですね。

中西 その半面、言葉がそれほど通じなくても、心が通じる部分はあるということも実感しました。言葉はもちろん重要ですが、それぞれがもっているバックグラウンドが異なっていても、さまざまなコミュニケーションを通じて仲良くなれるということはすごく感じました。それも米国の多様性の一部だと思います。

奥田 なるほど、そのほかには?

中西 陳腐に聞こえるかもしれませんが、努力は無駄にはならないということです。米国にいたときというよりも、米国で得た経験が、後になって非常に役に立ちました。米国の大学はもともと、ものすごく勉強させるのですが、私は英語のハンデもあるため、当時はそれをこなすのがとても大変でした。

 当時、日本の大学生の友達はアルバイトをしたり遊んだりしているのに、自分はなんでこんなに勉強しなければいけないのかと思っていたのですが、いまにして思うと、苦労した甲斐があったなと。それは30代の頃、とても感じた部分ですね。

奥田 その4年間は、一番勉強した時期ですか。

中西 そうですね。会計や経営の知識もそうですが、違和感なく英語でコミュニケーションがとれるようになったことは、自分にとってすごく大きな力になりました。
(つづく)
 

愛用のロレックスエクスプローラー

 マイクロソフト在職中の2003年、優績者に贈られるアワードの賞金を形の残るものにしたいと思って購入した時計。いまもずっと身につけている、お気に入りの品だ。
 
心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
<1000分の第220回(上)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。