Mozilla Japanが「WebDINO Japan」に衣替えしてから1年。瀧田さんたちは、ブラウザソフトFirefoxの普及活動にとどまらず、さまざまなかたちでウェブを通じた世の中の発展・進化に取り組んでいる。そうしたシーンにしばしば登場する「トランスフォーム」「オープン」「フラット」といったキーワードは、自由で明るい未来の可能性を想起させる。「これから5年後、10年後に、ここを起点として、世の中をどう変えていくのかという軸づくりをしていきたい」と語る瀧田さんの辞書には“止まる”という言葉はないようだ。(本紙主幹・奥田喜久男)

2018.8.23/東京都中央区のWebDINO Japanにて

基本になるものをオープンにするときっと面白いことが起こる

奥田 なかなかカッコいいオフィスですね。

瀧田 実は、このオフィスデザインもオープンソースにしているんです。

奥田 オフィスデザインのオープンソース? ところで、そもそもオープンソースとはどんな概念ですか。

瀧田 オープンソースという言葉には、ソフトウェアのソースコードを単に公開しているということだけでなく、自由に使用、複製、改変、再配布できるという概念が含まれています。1998年に有償ブラウザーソフトのNetscape Communicator のソースコードを公開し、外部のエンジニアと一緒に開発を行う共創スタイル(インターネット上の人達と一緒にものづくりをする)の始まりでもありました。その成果として現在のFirefox に発展していったわけですが、この概念はソフトウェア開発の中だけではなく、リアルな世界でもありなのではないかと考えたわけです。現在のオフィスになる前の六本木にあったオフィスの設計を行う際、デザイナーの太刀川英輔(Nosigner)さんが「オープンソースコミュニティーなのだから、オフィスもオープンにしよう」と言ってくださったこともあって…。

奥田 そのリアルな世界でのオープンソースは、具体的にはどのように実現したのですか。

瀧田 オフィス全体の設計図やこのテーブルやランプシェード、それにここにある三角の部材、これは単に固定するための部材ですが、デザインの要素も含めて、すべてネット上に公開したんです。

奥田 このテーブルは、どこかで買うことができるのですか。

瀧田 売ってはいません。ソースコードならぬ設計図をダウンロードし、それを基に作るわけです。その際、改変は自由で、そこから派生物が生まれ、イノベーションを止めないスタイルのものづくりを実現できるということですね。

奥田 やっぱりカッコいい。このオフィスをオープンにした結果、どんな連鎖がありましたか。

瀧田 例えば、このテーブルの図面をネット上に公開したら、ちょっとポップな色合いにしていたので、フランスの家具屋さんが興味をもたれて、子ども向けの机として実際に試作されたんですよ。そうしたら、強度が足りないことが分かって、逆にこちらにフィードバックをもらえたんです。ソフトウェアのソースコードの場合も同じですが、みんながオープンソースに集まるとだんだんかたちが変わってきます。改良したり、新しい機能が付け加えられたりと、そうしたことが自動的に起こり始めます。だから、基本になるものを世の中にオープンにすると、面白いことが起こるんです。

奥田 なるほど、化学反応が起こると…。

瀧田 私たちの根底にある理念は、「こうあるべきだ」と決めつけずに、いつでもそれをトランスフォームできるということです。

奥田 それはどうして?

瀧田 こうあるべきだと決めてしまえば、そこで進化が止まってしまうからです。私は大型汎用機のSE(システムエンジニア)などクローズドなソフトウェア産業で働いていましたが、スタートアップのはしりだったネットスケープに移って、いつでもトランスフォームできることのすごさを感じたのが、まさにソースコードの公開でした。

奥田 トランスフォームを、もう少し噛み砕いて表現すると?

瀧田 その場その場でかたちを変えるとか、適合させる、順応させる、派生させるといったことですね。

奥田 かたちを変えるから周りが変わるのか、周りが変わるから、かたちを変えるのでしょうか。

瀧田 それはどちらもあると思います。両方が受け容れられる環境でないと、進化には結びつかないでしょうね。

バイオ出身の“リケジョ”がITの世界に飛び込む

奥田 ところで、瀧田さんが社会に出られたのはいつですか?

瀧田 1986年です。

奥田 パソコンはそれほど普及していませんね。

瀧田 NECの98シリーズが出た時代です。

奥田 パソコンの存在は身近でしたか。

瀧田 私は大学ではバイオ、理工学部の化学科で生化学を専攻していましたので、ノンITでした。だから、コンピューターのコの字も(笑)。ワープロ専用機が出始めた頃でしたが、卒論は全部手書きです。

奥田 それはすごい転身ですね。ITの世界に入るきっかけは?

瀧田 本当にお恥ずかしい話なんですが、大学では与えられたことはバッチリやるほうだったのですが、就職活動をやっていなかったんですね。研究室の先生からはバイオ系に進みなさいというお話があったのですが、私の性格上、バイオではないなと感じ始めていたんです。

奥田 なぜ?

瀧田 私は試験管を振って、じっとしているのに耐えられないタイプだったんです。大学では酵母菌の突然変異に関する研究をしていたのですが、ビール酵母を培養して赤外線照射してという実験は、待ち時間がすごくあるわけですよ。その空いている時間が耐えられなくて……。

 当時は、新聞に新卒の求人広告が載る時代でした。そこに、日電東芝情報システム(現NECトータルインテグレーションサービス)の募集が出ていて、「初の大型汎用機の女性SE求む」と書かれていたんです。SEがどんな仕事であるかも知らず、「初」というところと「女性SE」というところに魅力を感じて、見た瞬間に電話をしました。それも公衆電話から(笑)。

奥田 反応が速いですね。

瀧田 「まだ募集していますか」と聞いたら「今から来られますか」と言われて、内心「えっ!?」と思ったのですが、「行きます!」と。

 ただ、SEが何かも知らず、バックグラウンドがIT系ではありませんから、入社してからどういう会社か初めて知るわけです。新人研修でCOBOLのプログラミングを教え込まれ、カードパンチのやり方を教わりました。

奥田 それは嫌ではなかった?

瀧田 嫌ではありませんでしたが、COBOLのプログラムを書いた時に、これは私に合っていないと思いました。プログラミング言語自体を見ると、処理の部分に行きつくまでの前処理の手続きが長すぎて、文系っぽく見えるんですね。

奥田 COBOLは性格に合わなかったと。

瀧田 汎用機のSEとして採用され、CADシステム開発担当となったのですが、じっとしている系ではなかったので、空いている時間には営業の人と一緒にパソコンCADを売り歩いたり、飛び込み営業もやりました。

奥田 仕事人間になって、何かを目指そうと。

瀧田 というか、止まっていること自体に耐えられないんです。

奥田 ずっと泳ぎ続けるマグロみたい。

瀧田 回遊魚って、よく言われます。

奥田 常に、どこか物足りなさがあったのでしょうか。

瀧田 そうですね。同じ場所に何年かいて、その時に自分がどうなっているだろうと見えた瞬間、変わりたい、チャレンジしたいと思ってしまいます。
(つづく)

瀧田さんが大切に保存していた14年前の『週刊BCN』

 写真は、本紙2004年9月27日付1057号。瀧田さんが「FACE」のコーナーで紹介されたこの号の「KEY PERSON」欄では、当時、奈良先端科学技術大学院大学教授で、内閣官房の情報セキュリティ補佐官を務めていた山口英さんのインタビューが掲載されている。残念なことに山口さんは一昨年若くして亡くなられたが、実は当時の瀧田さんの伴侶であり、また同志でもあった。もちろん、取材記者が示し合わせるはずもなく、本紙創刊号以来のこんな偶然に背筋がぞくっとするほど驚いた。(奥田)
 
心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
<1000分の第223回(上)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。