ネットスケープ在職中の1996年に瀧田さんが作った資料を見せていただいた。その最終ページに、インターネットについての未来予測が記されている。「情報共有の場からコミュニケーションの場に」「情報は探すのではなく、見たい情報が送られてくる」「Internetの利用はパソコンだけでなくなる」……。見事に今を言い当てているのだ。でも、瀧田さんは「20年以上経ってもこれだけしか実現できない。あれから世の中は変わっていない」と不満気だ。「変わり続けなければ進化はない」という強い思いを、改めて言葉の端々から感じさせられた。(本紙主幹・奥田喜久男)

2018.8.23/東京都中央区のWebDINO Japanにて

日本からやってきた“Chibi”がマウンテンビューで認められた日

奥田 オープンという概念は、対等とか平等といったイメージがありますが、瀧田さんはクローズドの世界よりもオープンの世界に魅力を感じたのですね。それを意識したのはいつですか。

瀧田 やはり、ネットスケープに転職した時です。初めて海外のオフィスで働くチャンスを得たことが大きかったですね。1996年から98年まで、ビザなしでカリフォルニアのマウンテンビューに行って、3カ月ごとに日本に戻ってくるということを繰り返しやっていたんです。

奥田 マウンテンビューではどんな仕事を?

瀧田 ブラウザーの国際化です。クオリティアシュアランス(品質保証)と国際化のエンジニアにそのやり方を教えました。もっとも新参者扱いなので、向こうのスタッフの手伝いから始めました。クオリティアシュアランスのチームに入れられて、最初はソフトウェアのバグ出しです。

奥田 国際化というのは、いろいろな言語に翻訳するということですか。

瀧田 国際化とは、いろいろな言語が正しく表示やインプットできるようにすること(多言語を扱えるようにすること)で、国際化ができて初めてローカライゼーション(多言語への翻訳)が可能になります。多言語化の需要はインターネットの普及とともに高まっていって、日本語版、ドイツ語版……と、リリースされる順番もシェアによって優先度が決まっていました。

 それで、台湾人の女性の下で日本語版のクオリティアシュアランスをやったのですが、やり方を一目見てこりゃダメだと。要するに、日本語表示のチェックやインプットテストを、日本語が分からない人がやっているわけです。日本語をインプットできないから、文字列をコピーアンドペーストして何か漢字が表示されればOKというんです。

奥田 それはずいぶん乱暴な(笑)。

瀧田 それで「いや、これ日本語じゃないから」というところから始まって、ダメなところを全部リストにして指摘したあたりから、立場が逆転しはじめました。

奥田 アシスタント扱いではなくなったと。

瀧田 それから、当時、ブラウザーの中でJavaが動かないという事態に直面していたのですが、もともと私は東芝時代にJavaのエバンジェリストもやっていたことがあったので、持っていたサンプルプログラムを提供し、国際化のエンジニアと一緒にそれを動かしたんです。

奥田 カッコいいデビューですね。

瀧田 英語はあまり話せないので、プログラミング言語で話すしかないと(笑)。日本の企業側からの不具合リストが山のように来ていたこともあり、それを全部直さないとリリースしないと、ちょっと強気な態度に出たんです。

奥田 リリース日は決まっていたのですか。

瀧田 決まっていました。それを止めていたのは私ですから、プログラムマネジャーからは嫌われていましたね。

奥田 でも、製品づくりには大きく貢献しましたね。

瀧田 もう必死でした。

奥田 日本から来た新参者でも認められて…。

瀧田 そうですね。短期間のうちに雰囲気がパッと変わって、英語をしゃべれない私のところにみんなが集まってくるようになりました。当時、私の愛称は“Chibi”だったのですが、メンバーは「Chibiは、このプロダクトのGuardian Angel(守護神)だね」と言ってくれたんですよ。

ビジネスから切り離されたことでコミュニティーが一気に活性化

奥田 その後、ネットスケープはAOLに買収され、2003年にはブラウザー部門を切り離しましたね。

瀧田 98年にオープンソース化した時、AOLネットスケープは、ビジネスとしてもう一花咲かせたいという気持ちを持っていたと思います。

 でも、オープンソースコミュニティーの立場から考えると、カリスマエンジニアたちと一緒にものづくりができるとはいえ、どうしてAOLのために自分たちが働かなければならないんだという思いがあり、ビジネスの部分とコミュニティーへの貢献という部分のバランスが悪かったのです。

奥田 営利と非営利が共存するのは簡単ではないということですね。

瀧田 はい。だから、03年に初めて企業組織から離れた瞬間に世の中が大きく変わり始めたんです。面白かったですね。売り物としては売れなくなって、ソースコードを公開して、これで変わるだろうと思ったら変わらなかった。

 ところが、ビジネスを離れ「好きにやってください」と言われた瞬間、エンジニアたちがワッと集まってきました。ここで、本当に流れが変わったと感じました。流れを体感したんですよ。

奥田 それで、04年にMozilla Japanを立ち上げられたと。

瀧田 93年頃、東芝でインターネット事業の立ち上げに携わった時、当時のインターネットの活用はメールなどが主流でしたが、ブラウザーが登場した瞬間、インターネットが見える化されたと思いました。

 その後、ブラウザーはマイクロソフトの1社独占の時代となり、それがずっと続くとは思いませんでしたが、自分としてはブラウザーはもういいかなと思っていたんです。でも、ネットの利用状況が変化する中で、もう一度ブラウザーの波が来るだろうということを、まさにこの時期、03年、04年頃に感じました。

奥田 昨年7月、そのMozilla JapanをWebDINO Japanに名称を変更されましたが、この名前にはどのような意味が込められているのですか。

瀧田 私たちが大事にしているのは、ウェブを軸にした、多様性のダイバーシティ(Diversity)、国際化のインターナショナライゼーション(Internationalization)、中立性のニュートラリティ(Neutrality)、そしてオープンであること(Openness)です。WebDINOの名前は、その頭文字をとってつけられました。

奥田 この四つをそれぞれ100点満点で評価すると、いま何点ですか。直感で。

瀧田 多様性に関しては80点、国際化に関しては70点です。中立性とオープンであることは両方とも100点ですね。

奥田 多様性と国際化はなぜ満点ではないのですか。

瀧田 これから先、もっともっと良くなる可能性を秘めていると思っているからです。

奥田 さすが、100点満点の答えですね。中立性とオープンについては確立してしまえば満点がとれるけれど、多様性と国際化は時代とともに変化しますものね。

瀧田 でも、本当は100点でなければいけないんです。

奥田 なるほど、あくまで完璧を目指すべきだと。これからもますますのご活躍を期待しています。

こぼれ話

 感動を分かち合うのに多少の時を要した。それもそのはずだ。まずはあり得ないことだからだ。初対面の時だ。ひと通りの話を終えると、カバンの中から新聞を私に差し出した。おやっ、週刊BCNだ。それも古い号だ。瀧田さんは突然にこやかな“ドヤ顔”になって「コレッ、記念にとってあるんですよ」。このくだりは前号に書いた。

 あり得ないことを目の当たりにしながら戸惑いつつも腑に落とした。「こんなことがあるんだ」とつぶやいたように思う。「瀧田さん、これ偶然ですよね」「もちろんです。自分の記事の掲載号を見て、私たちがお互いにビックリしたのですから、、、」。「へぇ~こんなことがあるんだ」と呟いたように思う。瀧田さんはニコニコしながら嬉しそうだ。実は私のほうは驚きながら喜びを噛み締めていた。自分たちが毎週発行する新聞が、これほど人に喜びのシーンを提供できていたことに飛び跳ねるほどの喜びが心の中に吹き出していたのだ。

 「瀧田さん、コレってすごいことですね」。ようやくあり得ないことが腑に落ちた私は、次に、この神がかり的な偶然性の出来事を瀧田さんと共有できていることに嬉しくなった。喜びを分かち合う時ほど素敵な時はない。発行人の私にとってゼロからイチを生んだ週刊BCNの創刊号は思い出に残っている。1057号は人の想いの及ばない力でできた特別な新聞だ。そうだ。この発行号は「瀧田記念号」と命名しよう。 「瀧田さん、思い出をありがとう」

 
心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
<1000分の第223回(下)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。