森田さんは、「運がよかった」という言葉をよく使う。右肩上がりの業績についても「ラッキーだった」と謙虚に表現する。実は、森田さんは4歳の頃、猛烈な痛みを伴う原因不明の骨髄炎を患い、何度も手術を受けた経験がある。そして、4回目の手術の前、これで治らなかったら左足を切断するしかないと医師に宣告されたのだ。夜、足の痛みに泣く幼い森田さんを背負いながら、お母様は近くの踏切に何度飛び込もうと思ったかという。その母子を救ったのは、当時、ようやく普及したペニシリンだった。「本当は運が悪いんだけど、運がよかったんですね」という言に深くうなずく。(本紙主幹・奥田喜久男)

2018.10.4/東京都千代田区のネットワールド本社にて

過去の経験を生かして未来の市場を予測する

奥田 森田さんは、時代の少し先を歩いてこられたということですが、どうしてそんなに先が読めるのですか。

森田 勘ですね。

奥田 それは、何に基づいているのですか。

森田 過去の経験によって培われたものでしょうね。私は大学を卒業して、まず東芝の工場でいろいろなプロセッサーのプログラミングをやってきました。ここでコンピューター、そしてプロセッサーがハード的に、どのように動いているかということを自分の肌感覚で知ることができたのです。ただ、東芝での仕事はおもしろかったのですが、電気技術者が主役のその工場にいても本当の意味でのコンピューターの勉強はできないと考え、ミニコンに興味を抱いた私は、当時、世界のリーダーであるDECにOSのサポートエンジニアとして入社しました。

 DECには、後にマイクロソフトに転職してWindows NTを作ったデヴィッド・カトラーという天才がいて、彼がDECのOSのコードの90%以上を書いていたんです。日本のコンピューターメーカーではまずフローチャートがあって、そこからコーディングしていくわけですが、カトラーは一切フローチャートを作りません。コーディングしながらコメント欄にメモしているだけなんです。

奥田 絵描きみたいですね。

森田 そういうものを間近に見て、すべては理解できませんでしたが、コンピューターがどう動いているか、あるいはそれを基本ソフトがどう動かしているかということを本格的に学ぶことができたのです。

 こうした過去の経験から、きっとこういう製品が市場を作るんじゃないかと考えることができるようになります。例えば、いままで各メーカーが独自のアーキテクチャーで組んでいたシステムが、組み合わせやすく設計されて、それが支持されれば、次は、もっと最初から組み合わせられたものが望まれるはずだ、と。多少の理屈もありますが、経験に基づいた感覚がものをいうのだと思います。

奥田 コンピューターの本質に迫る知識が、商売の勘につながったということですね。

エネルギー業界への志半ばでコンピューターに出会う

奥田 少しご幼少の頃のことをお聞きしたいのですが、どんな様子でしたか。

森田 生まれたのは高知市で、小学校に入るまでの6年間を過ごし、その後、父親の転勤で愛媛県の伊予三島市(現四国中央市)で高校を卒業するまで過ごしました。それで、私は、性格はさておき、理想の小学生、理想の中学生だったんです。

奥田 ほう、親御さんの自慢の子だったと。

森田 自慢の子だったでしょうね。田舎の学校ですが、勉強はいつも一番か二番で、水泳部でも一生懸命やっていましたから。でも、水泳は大したことがない、平均点選手です。中学時代は愛媛県大会で決勝に残るものの、3位以内には入れないレベルでしたから。

奥田 いや、水泳もすごいじゃないですか。それで学校で一番頭がいいとなるとアイドルですか。

森田 いや、顔がよくないですからね(笑)。

奥田 その文武両道の理想的な少年が、九州大学の応用原子核工学科に進むことになった。

森田 第一次オイルショックの後ということもあり、物理がちょっと好きになっていたものですから。これを生かして日本のために原子力発電関連の仕事をしようという青雲の志を抱いたのです。原子力関係の学科は全国に10大学くらいしかないのですが、そこに行って頑張ってみようと。

奥田 それがなぜコンピューターの世界に?

森田 皮肉なことに、第一次オイルショックをきっかけとして原子力をやろうと思ったのに、今度は第二次オイルショックで就職口がないんです。機械工学科や電気工学科の学生はそこそこいい会社の求人があったのですが、原子力専攻の学生は行ける会社の数がものすごく少ない。ほとんど全滅です。そのとき、セーフティネットになったのがコンピューター業界だったわけです。

奥田 なるほど。運の悪い世代だったと。

森田 でも、まあやってみるかということで入ってみたんです。コンピューターはおもしろいと思いました。私はプログラミングが速いんです。ただ、他人から見ると汚いコーディングだし、ドキュメントもよくないと叱られましたが、これは自分に向いていると。それで、チャレンジで外資系のDECに移ったわけですね。ただ、デヴィッド・カトラーのような天才を見てしまうとトップにはなれないと思い、営業を経験した後、マーケティング部門に移りました。

奥田 そうしたキャリアを経て、ネットワールドで1000億円の売り上げを達成しようとされているわけですが、次は何を目指すのですか。

森田 当社のような専門ITディストリビューターは、規模の経営をしていないし、付加価値率が非常に高いかといえばそうでもないという、ある種ユニークな立場にいると思うんです。社員の頑張りもあってここまで順調に成長してこられましたが、これは非常にラッキーなことだと思います。

 あらためて、ネットワールドという会社のビジネスモデルを再構築するとすれば、追求すべきは必ずしもスケールではないと思っています。それなら、今までと同じパターンで付加価値を追い求め、バリュー・アデット・ディストリビューターとしてやっていけるかというと、それほど単純ではなく、今後、大きな転換点に差しかかるとみています。

奥田 手放しで喜んではいられないと。

森田 今は、次の10年、20年を見越した、しっかりとしたビジネスモデルを描いて、それを実現していくタイミングだと思います。かつてIBMのメインフレームが未来永劫最強といわれていましたが、実はそうでもなかった。今のクラウドも同じかもしれない。そうした環境の変化も含めて、私自身が描き切れていない絵を、みんなで描いて、そこに色をつけていかなければなりません。

奥田 ところで、あと10年というと、森田さんはまだ現役ですか?

森田 もちろん現役ではないでしょうね。

奥田 現役ではないときの絵は、どう描きますか。

森田 まったくわかりません。私は汗水たらして人の3倍働くというタイプではないのですが、それでも人生の中では仕事しているときが一番好きなんです。仕事をしていると、3日に1回くらいはワクワクしますし、これがなかなか捨てがたい。だから今の立場を外れても、なんらかの形でそのワクワク感を伝えていきたいと思いますね。

こぼれ話

 「ペニシリン」という名の薬をご存じでしょうか。森田さんが「私はペニシリンのおかげで生き延びました」と語った時、ふと、兄のことを思った。この薬名を聞いたのは久しぶりだ。私は三人兄弟で、上に二人の兄がいる。一人が戦前生まれ、一人が終戦の年、そして末っ子の自分は戦後の生まれである。三人で幼児期の思い出を語り合うと、この6年の間における生活環境、医療環境は年を追って改善されていることを実感する。

 森田さんは話を続ける。「母親は足の悪い私をおんぶして、夜泣きをあやしながら踏切のある線路まで歩いて行き、足を切断しなくてはいけない状態のわが子の将来を憂えて、線路に飛び込むまで思い詰めながらも、私を育ててくれました。その踏切は今もあって、その時の母親の心情を思うと、涙が出るんですよ」。目頭を熱くする同世代の森田さんを見ていて、私もつられて母のことを思った。

 情緒的な話題はこの件(くだり)だけだ。対談は全編を通しておとぼけな雰囲気で進み、オブラートに包み込んだ堅実に伸長する業績の話で終始した。その過程で打ってきた事業戦略は技術的背景を踏まえ、システムの進化論から生み出され、信頼する社員の力で「売上高1000億円は目前」に達している。経営者はおしなべて自信家だ。そうでないと指揮台に立っていられない。それにしても、森田さんの自信は、いつ宿ったのだろうか。

 
心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
<1000分の第224回(下)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
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