周さんを包む柔らかな感性はどこからくるのか。以前から不思議に思っていたが、今回、おばあちゃんとの話を聞いて腑に落ちた。四季に恵まれ、のどかに続く暮らしと東広島の優しい人たちが、周さんの日本でのアイデンティティを育んだ。日本になじみ過ぎて悩んだこともあったそうだが、今は「日本をよく知る知日派の中国人」としてビジネスに取り組んでいる。日中の新たな時代が到来した今こそ、周さんの活躍する場が広がったように思う。(本紙主幹・奥田喜久男)

2018.10.30/成都ウィナーソフト 東京オフィス会議室にて

今の自分のアイデンティティは「日本をよく知る知日派の中国人」

奥田 日本に来たのはどういう理由からですか。

 私がいた中国の徳陽市と日本の東広島市が友好姉妹都市で、市議会の議長さんが留学生を呼びたいと個人でスポンサーになってくれたんです。それで徳陽市の高校3年生8000人くらいの中から選ばれました。

奥田 その時の心境は?

 中国では成績のいい学生は北京大学か清華大学に行って、その後米国へ留学というのが普通の道です。でも高校を卒業してすぐ海外に行けるのはいいかも、と。英語はきっと北京語と同じように標準語になっていくだろうし、さらに日本語が話せればプラスαの価値が生まれると考えました。

奥田 しっかりしてますね(笑)。東広島での寄宿先は決まっていたんですか。

 呼んでくださった議長さんは、金清守雄さんで大地主さん。家も大きくて部屋もいっぱいあったので、そこにホームステイすることになりました。

奥田 東広島での暮らしは周さんにとってプラスに働きましたか。

 当然です。ホームステイして良かったと心から思います。そうでなければ、これだけ日本人の普通の生活の中に、もっとかっこよく言えば心の中に入り込めなかった。例えば、おばあちゃん(金清さんの奥様)と毎週日曜日の夜、こたつに入ってミカンを食べながら洋画劇場を観たこと。その時、いろいろなおしゃべりをしたのがすごく良かった。日本人の考え方とかを生活の中で学ぶことができました。

奥田 いい風景ですね。おばあちゃんと周さんがこたつでミカン。大河ドラマじゃなくて洋画というのもいいね(笑)。

 おばあちゃんはミカンを食べた後のエキスを手に塗ってましたね。庭にある柿の実を、先端にはさみのついた棒で取ったり、にんにくを育てて私が中国料理を作ったり。田植えや稲刈りも手伝いました。どれもすごく面白かった。中国では体験できないことでした。

奥田 どのくらいそうして過ごしたんですか。

 4年ほどです。その後はマンションを借りて大学院を卒業するまで東広島にいました。おばあちゃん以外にもいろいろな人とかかわりました。賀茂泉という日本酒を造っている蔵元さんが、留学生を受け入れるから遊びにいらっしゃいと。それでときどき遊びに行って、蔵から賀茂泉を出して飲んで酔っ払ってそのまま泊まらせてもらったり…(笑)。

奥田 豊かな生活を送りましたねえ。東京ではとてもできないですね。

 でもあまりになじみ過ぎて、一時期、自分のアイデンティティの認識に疑問を抱いたこともありました。例えば、椅子に座る時にもあぐらをかきたくなるとか、お風呂に入るとほっとするとか。その思いを大学3年生の時に、ある日本語作文コンテストに「私の中の日本人化」というタイトルで応募して、最優秀賞をいただきました。

奥田 一体、自分は何人なんだ、と。で、結論は?

 世界人です(笑)。

奥田 イヤなヤツやなあ(笑)。今はどう思われているんですか。

 日本もビザ制度が緩和されてきて、帰化や永住権がずいぶん取得しやすくなってきています。自分は「日本をよく知る知日派の中国人」でいたいのか、「中国をよく知る日本人」でいたいのか自問自答したんですが、今の考えでは前者でした。

奥田 これからまだ変化するかもしれませんね。

中国の新たな取り組み「新工科」への期待

奥田 ぐっと現代に話を戻して、改めて周さんの会社「成都ウィナーソフト」について、もう少し詳しく教えてもらってもいいですか。今も上場はしているんですよね。

 はい。2016年の9月2日に新三板という株式市場に上場しました。これから考えているのは、日本の東証一部にあたるA株。上海と深センの両方にあって、合わせて3000社程度です。5年後をめどに考えています。

奥田 5年後ということは、そこから次の事業を構想するわけですよね。どんなことを考えていらっしゃいますか。

 ITをキーワードに日中交流を進め、両国の産業とそれぞれの企業の成長をできるだけサポートしながら自社も成長し、その中で技術移転とインキュベーションで新しい製品や技術を世の中に生み出したいです。

奥田 技術移転をもう少し詳しく。

 日本ですばらしいものを中国に、中国ですばらしいものを日本に、あるいは両方が合わさって第三国に、ということを主にやりたいと思います。

奥田 上場するには、主軸になる事業が必要ですよね。それはどの事業になりますか。

 一言で言えば、ソフトウェアエンジニアリングの基準づくりおよび実践。実践は日本向けの仕事づくりでやります。注目する産業は製造業、金融、エネルギー。金融については日本から中国に持っていくなら大型案件の開発、その逆ならフィンテックやモバイルペイメントなどでしょうか。

奥田 競合すると考える会社はありますか。

 いつも「ない」と言っています。あとは、日本にいる中国のIT技術者のレベルアップを考えています。10万人くらいいるのですが、ほとんどが派遣の末端。優秀な人でも上流工程の仕事ができていません。より優秀な人が直接ユーザーの役に立てる仕組みを作っていきたいです。

奥田 仕事ができていない原因はなんでしょう。

 日本の産業構造です。中国はせいぜい2層だけど、日本は5層くらいになっています。これを3層にしたらどれだけの価値が生まれることか。

奥田 中国では、2層以上は禁止されているからですか。

 いえ、看板がどうのということを企業側が気にしていないからです。要は実力勝負。中国の話をもう少しすると、日本の文部科学省にあたる「教育部」が、エンジニアリング教育の推進のために17年から始めた「新工科」という制度があります。これまでにないユニークな制度で、オーダーメイド教育が可能なのです。

奥田 具体的に教えてください。

 例えば、日本向けITで学生を育成したい場合、1年生の時から徹底的に日本語や日本文化を学んでもらって、4年になったらフルタイムで公式にインターンができるのです。私が所長を務めるCSIAにも協力要請がきて、福建省にある莆田学院という大学では1クラス50人で6クラス、計300人でスタートさせました。社会にデビューするのは22年7月です。莆田だけでなく、ほかにも事例があると思います。

奥田 興味深いですね。オーダーメイド教育。新しいことがいろいろと始まっていますね。

 その通りです。日中も新しい歩みを始めました。ですから、私の会社も新しいスタートをと思っています。

奥田 興味深い話をありがとうございました。これからは、すぐ近くにおいでになるのですね。それも楽しみにしています。神保町ですよね。

こぼれ話

 中国には好きな街が二つある。その一つが「成都」だ。初めて訪れた時に感じたことがある。この街はどこかに似ているぞ。広い道路、整然とした街並み。どこかに威厳もある。水も流れている。そうだ北京だ。でも、なんだか違う。街を行き交う人の流れ、買い物をする人の雰囲気、ウイークデーなのに路上で卓を囲む大人たち、その難しげな表情の中から時を楽しむオーラが伝わって来る。居心地の良い街だ。

 私は歩き始めると、数時間は散歩してしまう。中心街の天府には百貨店のようなイトーヨーカドーがある。大繁盛だ。伊勢丹もあって活気のある広場なのだ。少し筆を止めよう。これでは地球の歩き方の原稿だ。 最初の訪問は成都に縁の深い邱永漢さんに道案内をしていただいた。2回目の訪問のときに周さんに出会った。大きな会議室でお会いし、名刺を交換した。ひと言ふた言の会話と、その笑顔から、この人は日本人なのかと顔を見直したように記憶する。

 流暢な日本語もそうなんだけれど、気配りの所作から伝わる人となりから日本人らしさを感じた。その後、北京、ラサ、上海、東京でお会いしているうちに、話題が山東省済南市に及んだ。「えっ!?、周さん、済南にオフィス買ったの?」「はい、そうですよ~。なんで?」「周さん、僕ねぇ、もうそろそろ、古希を迎えるの、人生の第4コーナーには済南の普通の人たちと親しくなりたいと思っているんだ」。縁はまだまだ続いている。小説を読んでいるような気分でワクワクする。

 
心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
<1000分の第225回(下)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
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