旧加賀藩前田家上屋敷の朱塗りの門として伝わる東京大学の赤門。この近辺に量子コンピューター時代を担う3社のスタートアップが、拠点を置いている。集積地と呼ぶには、まだ企業数が少ないものの、量子コンピューターの市場が立ち上がるのはこれから。今後の発展が期待される。赤門の“レッドゲート”、量子コンピューターの“ゲート”方式から、この地が「レッドゲートバレー(RedGate Valley)」と呼ばれる日も近いに違いない。(取材・文/畔上文昭)
大学の技術を社会応用へ
――QunaSys
QunaSysの設立は18年2月。同社は、量子ゲート方式におけるアプリケーションの設計などに取り組んでいる。量子ゲート方式は、実運用できるマシンの登場までに時間がかかるとの声もあるが、楊天任CEOは、現時点の量子ゲートマシンでも活用できる分野があると考えている。「量子コンピューターがスパコンを超えることを意味する量子スプレマシー(quantum supremacy:量子超越性)に向けた研究が進んでいる。『NISQ(Noisy Intermediate-Scale Quantum)』と呼ばれる量子誤り訂正ができない100から200量子ビット程度の量子コンピューターでも、特定の問題においてはスパコンを超える可能性がある」。
QunaSys
楊 天任CEO
同社が現在取り組んでいるのは、化学メーカーと展開する化学素材のシミュレーション。いわゆる量子化学計算の分野である。量子コンピューターの活用による素材開発のスピードアップが期待されている。「大学における最先端の研究では、化学応用へのスピードが高まっている。しかし、そうした最先端の研究と、企業が使っている技術には、大きなギャップがある。当社は、大学の技術を社会で応用するための懸け橋を目指している」と楊CEOは語る。
発展途上にある量子コンピューターについて楊CEOは、広く活用されるようになるまでに30年ほどかかると考えている。とはいえ、それをただ待つだけでは、量子コンピューターの時代に対応できない。「量子コンピューターだから、どのような計算も速くなるというのは誤解。重要なのは、量子コンピューターに最適なアルゴリズムを見つけ出すこと。それが見つかった分野で、計算が速くなる」と、楊CEO。量子コンピューター時代に向け、長期戦で取り組んでいく構えだ。
アニーリング特化で市場開拓
――Jij
イジングモデルの数式から名付けたJij。18年11月の設立で、量子アニーリングマシン向けのソフトウェア開発と、組み合わせ最適化問題に取り組む企業向けコンサルティングを展開している。
Jij
山城 悠代表取締役CEO
量子アニーリングマシンは、商用サービスとして提供されていることから、企業での活用が期待されている。創業まもない同社にも、さまざまな企業から問い合わせがきているという。しかし、山城悠代表取締役CEOは、量子アニーリングマシンについて、次のように考えている。
「量子アニーリングマシンに対する期待は大きいが、組み合わせ最適化問題なら何でも解けるというわけではない。解けないというのは、数学的に現実時間で解けないということ。ただ、量子アニーリングマシンが、このケースでは“使えない”と判断するのは時期尚早」(山城CEO)。量子アニーリングマシンやアルゴリズムの進化次第で、状況が変わる可能性は大いにある。
現在では、組み合わせ最適化問題を抱える企業と共同研究を進めており、結果次第では古典的な手法を用いて、量子アニーリングマシンを使わないというケースもあるという。「さまざまなニーズをテストすることで、組み合わせ最適化問題への対応に詳しくなる。まずは、それを積み重ねていきたい。焦る必要はない」と、山城CEOはノウハウの蓄積に重点を置く。
またJijは、「OpenJij」というイジングモデル(QUBO)向けOSSソフトウェアを開発。これにより、量子アニーリングマシンのほか、CPUやGPUを用いたシミュレーションに対応している。まずはシミュレーション環境で実行し、結果が出たら量子アニーリングマシンを活用するといったことが容易になる。
商用サービスの開発に取り組む
――MDR
08年12月設立のMDRは当初、ウェブデザインを手掛けていたが、14年から量子コンピューター事業に取り組んでいる。現在では量子コンピューター向けのシステム開発が中心だが、ハードウェアも開発している。同社は18年12月13日、機械学習などに用いることが可能な磁束量子ビットの作製に着手し、基本的な量子ビットの構造を作り上げたと発表。国産量子コンピューターとして、今後の展開が期待される。また、ソフトウェアでは、量子コンピューター向けのSDK(ソフトウェア開発キット)「Blueqat」を開発。コミュニティーによる発展を期待し、19年3月にOSSソフトウェアとして公開した。ブログによる情報発信も精力的にこなしている。
MDR
湊 雄一郎代表取締役
MDRは量子ゲート方式と量子アニーリング方式の両方に取り組んでいるが、現在は量子アニーリング方式に関する問い合わせが多いという。「量子ゲート方式で組み合わせ最適化問題を解く『QAOA(Quantum Approximate Optimization Algorithm)』に関心を持つ企業も出てきている」と湊雄一郎代表取締役。同社は量子コンピューターのすそ野を広げるべく、頻繁に自社のオフィスで無料の勉強会を開催している。
量子コンピューターのビジネスは、現状ではユーザー企業とのPoC(概念実証)が一般的。湊代表取締役は、この状況に一石を投じるべく、自社開発の商用サービスを提供したいと考えている。「量子アニーリングへの取り組みは確実に広がっている。しかし、商用サービスが出てこない。アニーリングが本当に理論の通りなら、サービス化は可能なはず。できれば夏くらいまでに商用サービスを開発し、提供したい」。量子ゲート方式についても同様で、100量子ビット程度のNISQを使用した商用サービスの開発を目指している。
“ラズパイ”風で話題
名刺サイズを実現した日立のアニーリングマシン
日立製作所は2月19日、デジタル回路を用いたアニーリングマシン「CMOSアニーリングマシン」を名刺サイズ(91mm×55mm)に高集積化し、高速化とエネルギー効率を大幅に高めることに成功したと発表した。今回開発したCMOSアニーリングマシンは、量子コンピューターの6万量子ビット(約6万パラメーター)に相当する性能を備えている。
日立がパートナー向けに無償開放しているCMOSアニーリングマシンは、構成を設定できる集積回路「FPGA(Field Programmable Gate Array)」を使用しているが、今回発表したものは専用チップを自社開発した。小型化に取り組んだのは、IoT機器での使用を想定してのもの。ただ、具体的なニーズが見えないため、販売の予定はないという。
IoT機器に実装可能な小型のCMOSアニーリングマシン
学習用として開発された小型コンピューターの「Raspberry Pi」のように、アニーリングの学習用としての活用も期待される。ニーズがあれば量産も可能とのことで、今後の展開に期待が集まる。