企業活動に大きな影響を与えた新型コロナウイルスの感染拡大を契機に、ニューノーマル時代における新たな働き方・生活様式の実現に向けて、デジタル技術を活用する動きが企業の間で広がっている。「デジタルトランスフォーメーション(DX)」の言葉は、新たな社会を生き抜くためのキーワードにもなっているが、DXとは単にテクノロジーを活用することではない。その本質を捉えていないままデジタル化を進める企業も多い。コロナ禍においてDXを正しく捉え推進するために、あらためてDXの要点を再考してみよう。
(取材・文/大河原克行 編集/前田幸慧)
DXは技術論でなく経営論で捉えるべき
デジタルトランスフォーメーション(Digital Transformation)の略称は、なぜ「DT」ではなく「DX」なのか。Transformationという単語には、Xの文字が含まれていない。不思議に思う人も多いだろう。実は、そこにDXの本質があるといっていい。
経済産業省 和泉憲明 室長
英語圏では「Trans」を省略する際、Xを用いる慣習がある。そして「Trans」には、Xという文字で示されるように、上下が反転する/逆転するという意味がある。つまり、置き換える/変化する「チェンジ」や、修正する「モディファイ」といった部分的な変化とは異なり、「トランスフォーメーション」には、全てが大きく変わるという意味があるのだ。
言い換えれば、最新のデジタル技術を活用して、仕事のやり方を変えたという程度では、DXという言葉が持つ意味からはほど遠い。「2025年の崖」が注目を集めた経済産業省の「DXレポート」の執筆にも関わった経済産業省商務情報政策局アーキテクチャ戦略企画室長兼ソフトウェア・情報サービス戦略室の和泉憲明氏は、「単に最新技術を活用したとか、少し生産性が上がったというレベルではDXとはいわない。いまこそ、DXが持つ語義を押さえておく必要がある」と指摘する。
この新型コロナ禍で一気に導入が広がったテレワークも、従来の仕事のやり方をテクノロジーで変えるものだが、DXの専門家から言わせれば、テレワークをただ導入しただけではでDXとはいえない。
Ridgelinez 今井俊哉 CEO
富士通のDX専門会社であるRidgelinez(リッジラインズ)の今井俊哉CEOは、「テレワークは、デジタルの力を利用することで離れたところでも仕事ができるというメリットが生まれる。だが、テレワークだけではDXとはいえない。テレワークによって、社員の勤務評価を成果重視の仕組みに変えることが求められ、その結果、経営の仕方も変質させる必然性が生まれる。こうしたところにまで踏み込むことでDXが生まれることになる」と説明する。
業界内には、IDCが定義するクラウド、ビッグデータ、モビリティ、ソーシャルで構成される「第3のプラットフォーム」や、クラウド、AI、モビリティ、ビッグデータ、ロボティクス、IoT、サイバーセキュリティで構成される「CAMBRIC」、分散型台帳技術やAI、拡張現実、量子コンピューティングによる「DARQテクノロジー」といった最新技術を示す用語があるが、これらの技術を社内システムに採用しただけではDXとはいえない。経済産業省の和泉室長は、「いくら技術用語を並べても、DX全体を理解することはできない。DXは技術論ではなく、経営論として捉えなくてならない」と話す。
テクノロジーを活用し企業と社会の課題を解決する
では、どのような取り組みがDXといえるのか。和泉室長は、DXらしい事例の一つとして、パリの地下鉄を挙げる。
パリの地下鉄は1998年から自動運転を行い、現行車両では運転席がない。しかも、長年に渡り投資を続けており、現在もAIなどの最新技術を活用して進化を続けているという。
だが、ここで重要なポイントは自動運転としての技術の進化ではないと、和泉室長は指摘する。
「最大のポイントは、観光都市であるパリが、その価値を高めるために最新テクノロジーを活用し、モビリティを強化しているという点だ。例えば、オペラ座でイベントが終了したあとには、最寄りの駅が大混雑する。その際に、自動運転であれば運転手の手配がいらないため、オペレーター権限で臨時便を次々と増発でき、一気に混雑が解消する。これが自動運転の最大のメリットだ。自動運転というと、運転士の削減などに注目が集まるが、パリの地下鉄は価値の提供にテクノロジーを活用している。DXというのは、最先端の技術が課題解決や価値へとつながることが大切である」
中国平安保険グループの取り組みも、DXの事例といえよう。同社は1988年に深センで創業した保険会社であり、後発といえる存在だ。だが、2019年12月期の売上高は約21兆円、純利益は2兆3000億円。いまや、アリアンツやアクサを抜いて世界第1位の保険会社であり、時価総額ランキングでも世界トップ50にランクインしている。
経済産業省と東京証券取引所が共同で選定している「DX銘柄」の評価委員長を務めている一橋大学大学院経営管理研究科の伊藤邦雄特任教授は、「IT企業が覇権を握る時代において、保険会社という既存型企業がなぜ急成長したのか。それは一言でいえばDXの成果である」と断言する。
一橋大学大学院 伊藤邦雄 特任教授
保険会社では一般的に、一度加入手続きを行った後の契約者との接点は、けがをしたり、入院したりといったタイミングに限られる。それ以外の場面での接点は全くないといってもいいだろう。平安保険グループはデジタルを活用して医療や移動、住居、娯楽といった生活圏にまで事業領域を拡大することで、ビジネスの枠組みを大きく変え、事業を急成長させた。
同社は、2013年からデジタルサービスを開始。その中核となったのが、医療アプリ「平安好医生(平安グッドドクター)」だ。現在、2億人のユーザーを抱える。
このアプリには無料問診機能が搭載されており、アプリの問診に従って症状を入力するだけで、提携した医師が2分以内に回答する。すぐに病院に行った方がいい場合には、病院と医師を選定して、予約手続きも行ってくれる。ここでは4万人以上の医師と、3000カ所以上の病院と提携している。中国には多くの開業医がいるものの、医療サービスの品質には大きな差があり、悪質な医師にあたると高額な医療費を請求されたり、場合によっては生命の危機にさらされたりする問題が発生しかねない。その結果、総合病院に人が殺到したり、開業医が住民から信用されなかったりという事態が発生していたという。こうした社会課題の解決にもアプリが役立ったというわけだ。
さらに、平安グッドドクターには、ポイント蓄積機能を搭載。ユーザーが歩くだけでポイントが貯まるようにしている上、一日に一度アプリを開き、歩いた分を換金するボタンを押さなくてはならないため、多くの人がアプリを起動する。その結果、スポンサー企業が集めやすく、多くの利用者の健康データも収集できるようになった。
従来は営業員が保険の勧誘をしてもなかなか加入してもらえなかったが、まずは無料でアプリを使ってもうらことで安心感を持ってもらえるという効果もあった。平安保険グループ側も、アプリの利用状況を分析することで潜在顧客の状況を把握できるため、営業員が最適な保険を勧めやすくなるというメリットがあり、営業活動に大きな効果があったという。
平安保険グループは、2020年3月30日に塩野義製薬と資本提携を発表し、塩野義製薬が51%、平安保険グループが49%を出資するジョイントベンチャーを中国に設立した。塩野義製薬は、平安保険グループが持つライフスタイルに関するビッグデータとAI解析技術を組み合わせることで、付加価値の高い革新的な医薬品やヘルスケアサービスを効率的に創出し、顧客それぞれのニーズを満たす個別最適なソリューションを提供できるデータドリブン型の創薬・開発プラットフォームを確立するという。新たなビジネスの創出にもつながっているというわけだ。こうした事例からも分かるように、DXは単に先進的なテクノロジーを活用すればいいという話ではない。経営そのものを変え、社会課題や企業が持つ課題を解決して初めてDXといえるのだ。
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