事件記者として百戦錬磨の人物が、パソコン雑誌の編集長に就任した。老舗パソコン雑誌である「ASAHIパソコン」の新編集長・奥田明久氏がその人である。第一声は、「読者、ユーザーの信頼を回復する雑誌が、この産業には必要である」。パソコン雑誌が低迷するなか、ASAHIパソコンは、どう変わろうとしているのか。そして、どんなメッセージを投げかけようとしているのか。
IT業界は“狭い世界”各メーカートップに話を聞く
――今日はちょっと楽しみにして来たんですよ。
奥田 なんでですか。
――コンピュータ産業のジャーナリストはまじめな人が多いですから(笑)、社会を裏側から見てきた人には、この産業がどんな風に見えるのだろうかと。
奥田 不真面目ということですか(笑)。
――いや(笑)、この産業を、どんな視点で活字にしてくれるのかという点で興味があるんです。
奥田 私自身、この業界が好きでASA HIパソコンの編集長になったわけではないですからね。半年前にデスクとしてASA HIパソコンに来て、この4月から編集長になった。これを断るとクビですから(笑)。とにかく最初は、メーカーが何を考えているのかを知らないと話にならないですから、こちらから無理矢理約束をとりつけて、大手パソコンメーカー、周辺機器メーカー、ソフトメーカーなどのトップに会って話を聞きました。
――どんな印象でした。
奥田 ずいぶん狭い世界だなぁ、と思いましたよ。これまで新聞記者として、あるいは週刊誌の雑誌記者として取材していたのに比べると、担当する範囲が狭い。それにこの業界を専門に担当している記者やライターがいて、企業側もそれに対応するための体制を整えている。これまでの私の取材方法のなかでは、こういった経験がないんです。
――これまで担当してきたのは、いわば事件記者ですね。
奥田 そうです。本社の社会部や支局でも事件を追っていましたから。例えば、横浜支局時代には、川崎市の助役が未公開株に絡む事件があり、20歳代の記者が中心になって追ったのですが、当時は「少年探偵団」なんて呼ばれてね(笑)。これが後のリクルート事件にまで発展するわけです。そのときには、まさか政権が倒れるところまでいくとは考えてもいなかった。そのあと、なだしお号事件、坂本弁護士失踪事件などの事件が目白押しで、3年間まったく休みがないという生活でした。ある時、若手記者が私の残業時間を計算して給与で割ったんですよ。そうしたら、時給が100円程度。マクドナルドでバイトしていた方が割がいいと(笑)。
――週刊朝日に移ってからも同じような生活を?
奥田 もう少しのんびりやろうと思ったのですが、湾岸戦争直後にクウェートに行けと。どうも事件となると、こっちに話が飛んでくるんです(笑)。エジプトからサウジアラビアに入って、そこから陸路でクウェートに。とにかくクウェートに入らないと話にならないので、もう必死ですよ。ペルーの日本大使館事件も、マニラ支局にいた時に呼び出されて、本来ならば1か月で交代するはずが5か月間もいることになった。
――事件を追う勘どころがあった?
奥田 事件は場数ですね。国際事件では、確かに言葉の障壁はありますが、海外でも日本でも本質的なところは一緒です。ただ、新聞記事というのは、プロセスは関係ないんです。何か起こったときに、きちんとした記事が入れば、普段、なにをしていようが関係ない。「うんこ」みたいな記事を書いていたら駄目ですが。
――「うんこ」みたいな記事とは。
奥田 まず、遅い記事は駄目ですね。新聞はテレビより遅いのは事実です。しかし、夕刊に間に合うのにじっくり書きたいから翌日の朝刊にするなんていうのは、許されない。また、それを認めるデスクがいることも問題です。それと、読者が読みたいという内容からほど遠い独善的な記事を書く記者がいますが、まさに自分で満足しているだけで、これも駄目。いち早く、読者に的確な情報を届けるということが必要なのです。
パソコン誌は部数低迷ユーザーの信頼回復が肝要
――そうした経験を踏まえて、現在のパソコン雑誌やIT産業紙をどう評価していますか。
奥田 70年代にパソコンが登場して、ここまで産業が成長してきたのは、メーカーと一緒になって、パソコン雑誌や産業紙が支えてきたという側面はあります。ただ、この関係が仲良しこよしの関係じゃまずいんです。ITが一般に広がってきたことで、さまざまな問題も起こってきている。「これはおかしい」という点があれば、読者やユーザーに向けてきちんと指摘することが必要なんです。パソコン雑誌を見ると、問題点には触れているが、ちょっと書いているだけで、しっかりと書いていない。もちろん、広告の問題とか、大手メーカーに嫌われたら困る、というのはあります。しかし、そんな態度ばかりでは、読者やユーザーにソッポを向かれてしまう。しっかりした視点をもって、書くべきことは書くという姿勢が必要です。
――まずは、ASAHIパソコンを変えていこうというわけですね。
奥田 パソコン雑誌の部数は各誌とも落ちています。ユーザーの視点を忘れている雑誌が多いんですよ。だから、ユーザーの信頼を回復する雑誌が必要だと。メーカーも勘違いしているところがあって、どうも原稿をチェックしたがる。まるで宣伝ツールと勘違いしているんです。私は「バンザイ取材」という言い方をしているのですが、取材先が「バンザーイ」といって迎えてくれるような取材では駄目なんです。そんな取材では、こちらにはメリットがなにもない。部数が落ちているのは、市況が変わったとか、経済環境が悪いとか、外的要因にするのは簡単なのですが、読者があっての雑誌であるという基本的なところを忘れている。そこに問題があると認識しなければならない。まずは、自己反省から始めるしかない、と思っています。
――ところで、ASAHIパソコンでもウェブで情報提供をしていますね。紙媒体との位置づけはどう捉えていますか。
奥田 ASAHIパソコンニュースというのをウェブで提供していますが、これまではほとんど活用していなかったというのが実態です。ウェブは別のものという、新聞社的な発想がありましたね。これは、きっちり連動させていくべきだと思います。雑誌は、まとまった形でアウトプットしますし、保存性や資料性という意味でも重要な役割がある。これにウェブをどう絡めるか。試行錯誤している段階ですよ。
眼光紙背 ~取材を終えて~
眼光紙背子自身、BCNに長く携わり、そして、現在、ASAHIパソコンにも執筆している。その立場から、今回のBCN・奥田主幹によるASAHIパソコン・奥田編集長へのインタビューは密かな楽しみだった。それは、マスコミ人としての互いのスタンスに近いものがあると知っていたからだ。
話題はやはりマスコミ論に及んだ。奥田編集長が「バンザイ取材」というのに対して、奥田主幹は「受材」という言葉で表現する。どちらも「御用記者」に向かって使われる言葉だ。「読者への信頼回復」が部数増加へのキーワードとして意見が一致する。
今回のインタビューは、いわば2つの媒体の方針宣言といえるかもしれない。
ちなみにこの2人、名字は同じだが姻戚関係はまったくない。(君)
プロフィール
(おくだ あきひさ)1958年、東京都渋谷区生まれ。83年、朝日新聞社入社。その後、静岡、函館、横浜支局を経て、90年に週刊朝日に。95年に外報部に異動。96-99年、マニラ特派員。帰国後、週刊朝日副編集長を経て、01年10月にASAHIパソコン副編集長。02年4月から編集長。湾岸戦争直後にクウェートに単独潜行取材の経験をもつほか、ペルー日本大使館事件、昨年9月のニューヨークの同時多発テロ事件などの取材も担当。
会社紹介
ASAHIパソコンは、1988年創刊のパソコン専門誌。編集方針は、「ITの全体像を伝える最新情報を、特定の分野に偏らず精力的に掲載する」。ハードやソフトの使い方などの記事に加えて、ニュース記事や新製品情報を、新聞社の特性を生かした深い取材に基づいて掲載しているのが特徴だ。教育分野を対象にしたパソコン活用事例の紹介や、業界内外のキーマンのインタビューなども好評である。発行部数は約10万部(01年実績)。発行サイクルは、15日、29日の月2回。インターネットでも、ニュースなどを中心に情報提供を行っている。アドレスはhttp://www3.asahi.com/opendoors/apcnews/。また、姉妹紙に月刊誌の朝日ビジネスPASOがあり、ビジネス分野におけるパソコン利用法などを紹介している。