「LanScopeは凄い」こういう声を耳にする。なかでも、ネットワーク統合管理ツール「Cat3」や「Guard」への関心は高い。開発したのはエムオーテックス(MOTEX)。「最初の10年間は飲まず食わずで開発に専念。世界最高レベルの製品を開発した後で、世界市場に打って出る」創業者の高木哲男社長は、夢を描き続けた。
世界にも類のない、ネットワーク管理製品群
――絶好調のようですね。業績面ではどのような中期経営計画を立てているのですか。
高木 これまで何度か危機的状況を経験しました。そうした経験を通じて、売り上げを追うのはやめよう、粗利を重視しようという風に方針を変更しました。その意味で、いま私の頭の中にあるのは粗利額だけでして…。3、10、30という目標を掲げています。今年度の粗利額が3億円、これはめどがつきました。来年度10億円、再来年度30億円というのが目標です。
――達成できそうですか。
高木 いま、勢いがつきつつありますので、楽観的に考えていますよ。
――売上高でなく粗利で30億円というのは凄い目標ですね。ここに来られるまでには危機的状況もあったとのことですが、会社設立に当たってはどんなことを考えたのですか。
高木 大和紡績時代はユーザーの立場、ダイワボウ情報システム時代は開発者の立場で、ネットワーク回りの仕事をずっとやってきました。ダイワボウ情報システムは1991年に株式を店頭公開するめどをつけたわけですが、ここまで来れば会社は大丈夫だろう、後は自分のやりたいことにチャレンジしてみようかと思ったんです。ネットワークのことしか知りませんので、当然、事業目的はネットワークに絞りました。当初10年間は開発に専念、1年に1つずつ新製品を出していこうという目標を立てました。
――90年は、ノベルが日本法人を設立、日本でもネットワークへの関心が高まり始めた年ですね。
高木 最初に手をつけたのは、いまでいうデスクトップ管理の分野でした。当時のパソコンはハードディスクの容量が少なく、資産管理といえばその容量管理やソフトウェアの資産情報管理などがメインテーマでした。また、障害発生時における復旧という側面でリモート管理にも関心が高まっていました。CATというブランドで製品化しましたが、最初は泣かず飛ばず。OEMで食っていたとも言えますね。ただ、1年に1本という開発目標は崩しませんでした。ネットワーク回りの動きは非常に早いし、奥も深い。とにかく、そのすべてに対応してやろうと。96年頃から投資対効果の側面から稼働管理が注目されるようになりました。そして97年頃、LANからWANへの移行が進み出すにつれてリアルタイムイベント管理、インターネットの本格普及につれてセキュリティ管理が注目されるようになってきました。こうした時代の要請に応えて、その時々の最先端製品を投入してきたつもりですが、儲かるところまではとてもとても(笑)。本当に飲まず食わずで頑張らざるを得ないという時期もありましたよ。
――転機が訪れたのは。
高木 CAT2を出した一昨年あたりからですね。セキュリティ管理に世の関心が集まるなか、当社のLanScopeシリーズは世界のどこにもない機能があることが認知されてきました。最初は、官公庁などが評価して、今は急速な広がりを見せ始めています。
――どのような点が評価されているんですか。
高木 セキュリティ問題の1つに、情報漏洩があります。しかもそのほとんどは内部の人間が関与しているというデータがあります。当社のLanScopeは、誰が、いつ、どのファイルにアクセスしたかというデータを取ることができる。そんなことは無理だろうと思われていたことを実現したんですが、これができるので内部漏洩に対しても対策が図れるわけです。見せ方も工夫して、ログデータを自動分析、問題点の自動抽出、分かりやすいグラフ表示などにより、経営者でも問題の所在が一目で分かるようにしました。
――高い技術力が必要になりますね。
高木 そう思いますよ。いま、ネットワークとコンピュータのつながりについて、本当に詳しい知識をもっているのは、全世界でも1000人足らずしかおらず、うち900人はマイクロソフトにいるだろうと見られています。当社はそのレベルの技術者を抱えていますので、ドライバの自社開発ができるんです。一般論としていいますと、MS-DOSの時代には本当に深い知識が求められました。それがOSの発展につれて、アプリケーションの開発技術者はそれほど奥のレイヤーの知識を必要としなくなり、マイクロソフトもそこには触らせないようにしてきました。だから、総体的に技術者のレベルは落ちてきている。その危険を感じましたので、技術者のレベル維持には力を入れてきました。
リモートでシステム診断、問題点をカルテで連絡
――波に乗ったいま、新しい目標は立てていますか。
高木 ネットワークセコムといいますか、ユーザーのネットワーク管理をリモートで行い、カルテを自動発行するデータセンターの運用を始めようと思っています。大手企業にはネットワーク管理者がいますが、中小規模事業者は専任者を置けないところが多い。そうしたユーザーのために、ユーザーのシステムとデータセンターをつなぎ、こんな問題が発見されました、このままでは危険ですよ、などのカルテを出していこうと思うんです。データセンター自体は、当社が設立するということでなく、既存の事業者とアライアンスを組んで対応していくつもりです。それほどコストをかけずに実現できると思っています。
――本格展開はいつ頃と。
高木 再来年からと思ってます。
――海外進出もその頃からですか。
高木 ほぼ同時展開と考えています。とにかく、いまのところ世界にも競争商品はありませんので、相当いけると思いますよ。
眼光紙背 ~取材を終えて~
「あれっ、何か違うな」という印象を強く受けた。数か月前とは大きく違う。ひと言でいえば、「こんなに若かったの」と思った。苦節10年、ようやく波に乗った安心感と、旺盛な事業への意欲が若返らせたのかな――と思ったが、どうもそれだけでもないらしい。最近、伊勢神宮の神官であり絵師でもある榊原匡章氏に知遇を得、心酔するようになったという。「先生の一喝で、私自身、本当に肩が軽くなった。怨霊が吹き飛んだ瞬間、顔つきまで変わった人なども見た」とのことだ。一方で、アコースティックギターをこよなく愛し、自宅にライブ用の特別室をつくった。神がかりになりすぎると問題だろうな思ったが、この和洋折衷ぶりなら大丈夫だろう。大化けする可能性を感じさせる。(見)
プロフィール
高木 哲男
(たかぎ てつお)1948年、東京生まれ。73年に大和紡績入社。ユーザーの立場でネットワーク導入に携わる。80年、ダイワボウ情報システムの設立に参画、創業者メンバーの1人となる。ダイワボウ研究所、システム技術課などで光ファイバーを使った「パイネット」を独自開発、世界で最先端のネットワークとして注目を集める。90年に独立し、エムオーテックス(MOTEX)を設立、社長に就任。
会社紹介
高木社長はダイワボウ情報システム(DiS)の創業メンバーの一人。故山村滋社長の懐刀的存在だったようだ。それだけに、会社を辞めたいと言ったときは、山村社長が激怒したと言われる。それを押して独立したのが1990年。DiSは翌年に店頭登録のめどがついたため「後は私のやりたいことをやる」と決断した。それから苦節10年を経て、急成長の波に乗った。「LanScopeはかつてのノーツの登場を思わせる。多少の時間はかかっても、ネットワーク管理、セキュリティ市場をリードする製品に育つだろう」と評価するのは、ソフトバンク・コマース榛葉淳取締役(コーポレートチャネル営業本部本部長)。初期ユーザーには官公庁が多く、10万台近く一括納入しているケースもある。「守秘義務があり、事例として公表できないのが悩み」と高木社長は苦笑する。再来年の粗利目標は30億円。