日本で初めてのコンピュータ専門単科大学として開学した福島県立会津大学の1期生。「大学では勉強しろと言われるより、起業しろという言葉の方が普通に交わされている」という雰囲気から、「会津で起業」というのはごく自然なことだった。会社設立から7年。2001年9月には地元経済界の支援により増資も行った。すでにシンクをスピンアウトして独自にITベンチャーを設立する人材も輩出するなど、会津大学発ベンチャーとして抜きん出た存在になっている。
大学の気風は「勉強よりも起業をしろ」地域とシンクロしたITビジネスを興す
──会津大学発のベンチャー企業はすでに20社以上になります。その中でもシンクは“老舗”ですね。
上野 最初から理想を掲げて会津大学に入ったわけではないのですが、父がソフトウェア関係の仕事に携わってきたという背景はありますね。会津大学について言えば、ベンチャーを興すという雰囲気が最初からあったように思います。勉強しろというより、起業しろという言葉が普通に交わされているような環境なんです。よく「明治維新の恨み」などとも言われますが、会津地方にはこれまで国立大学が設置されなかった。そこに県立会津大学の設置が認められ開学したというのは、会津地方の人々にとっては大きな喜びだったわけです。
もともと会津は漆器や地酒など特産品に代表されるように、地場の中小企業が非常に多い土地柄です。中小企業やベンチャーという存在に違和感がなく、それだけ応援してくれる人たちも多いなど地域経済にインキュベーター機能があると思います。そうした環境もあって、会津大学を卒業して会津を離れずに起業してしまう、というケースが多いのでしょう。
──しかし、会津地方だけに限ってしまえば、ITニーズが突出して多いというわけではありません。ビジネスの環境という点では、むしろ不利なのではないでしょうか。
上野 会津大学があるということでシーズは極めて豊富ですが、ニーズが限られていることは確かなことです。会津大学はその特徴的な教育方法で知られています。それは起業ということでは重大なきっかけをもたらしています。何せ建学精神が「地域から国興しを目指す」ですから。そうした環境で地域のニーズにとらわれず、地方発でベンチャーを興すというのは自然な成り行きだったと思います。学生時代にシンクを設立しました。シンクの名前の由来はシンクロナイズ、同期です。私も創業したメンバーも学生でしたが、地域と私たち自身が同期していこう、つまりコンピュータを社会に送り出すことをビジネスにしていこうと考えたわけです。設立メンバーは私を含めて3人です。最初から、漠然とソフト開発をしたいという想いはあったのですが、学生という立場で社会との接点を見出せず、最初はコンピュータの家庭教師から事業を始めました。それを通じて、なにか開発につながることが見つけられればと考えていました。
会津大学はパソコンの環境ではなく、当初からUNIX環境でした。当時、UNIXに触れてみて、コンピュータを使っていろいろなことができる、生活を便利にできるということを実感しました。何も会津だけをターゲットにするのではなく、いつか技術開発を通じて社会に貢献したいと思い、シンクの設立となったわけです。
──今でも社員は、会津大学出身者が中心なのですか。
上野 会社としてやっていくうえで、同じ大学の出身者で固めてしまうのはプラスにはならないと思います。設立当初はまだ学生で、気の合った仲間同士でワイワイやって技術を起点にビジネスのアイデアをどんどん出す、というような楽しさがありました。しかしビジネスとしてみれば、学生時代に足りなかった部分を補う必要があり、そこはビジネス経験の豊富な人材をヘッドハンティングしたり中途採用を実施してきました。その結果、現在では会津大学の出身者は全体の3分の1程度に過ぎません。会津大学出身者と他の学校の出身者の間に溝ができそうですが、経営方針をオープンにし透明性を確保するよう努めてきました。
受託開発中心の事業を基盤に 地元企業からの直接受注を狙う
──ソフト開発需要の首都圏集中という状況から、地方のソフト開発会社の経営環境は良くないようですが。
上野 当社の昨年度(05年5月期)の売上高は約3億8000万円でした。目標設定としては低いのですが、今年度は5億円の売上高を目指しています。現段階で、4億円強までは見えてきていますので目標達成は可能だと思います。今のシンクのビジネスは、受託開発が中心で、パッケージソフトの開発販売、ソリューション事業というところまで到達していないのが問題点です。ただ、技術力については自負しており、幅広くニーズに応えられると思っています。社員数は70人程度まで増えており、そろそろ商品を持ってしっかりやっていこうという考えはあります。
受託開発、下請け依存では利益面で非常に厳しいというのが現実です。地方では、首都圏で下請けビジネスを展開するより厳しいといえるかもしれません。当社の下請け比率は7割で、地元向けのビジネスは半分程度、半分は首都圏のビジネスが占めています。ただ、地元自治体で地元IT企業を活用しようという政策が進められており、当社もそうしたプロジェクトに参加できるようになってきました。このようなプロジェクトでは、大手ITベンダーとの競合という側面はありますが、大手ベンダーの高い単価に近づけることが可能で、我々のようなベンチャーからみれば相当高い単価で受注できるメリットがあります。
大手ベンダーと競合するために、会津では地域ナンバーワンの会社になることが最低限必要なことです。それだけでなく、東京事務所にも約20人のエンジニアを置いて、常に最新の技術への対応を進めています。
──東京を中心に首都圏のビジネスが半分を占め、今後の成長基盤として会津よりも首都圏でのビジネスを確保する方が確実です。そうなると会津に本社があるという意味が薄れてきますね。
上野 確かにそういう面はあると思います。私自身、1週間の半分は東京の事務所を拠点にしているというのが実情です。しかし、地域と密着した大学があって、地元の産業に対する人材の供給拠点になっている地域は少なくありません。シンクも会津大学と、会津若松市と密接な関係があって成長してきたといえます。会津大学があって、ソフト産業が会津に根付いてきたことは事実です。すでに会津大学の出身者が会津を離れて東京で起業するケースも出ています。
シンクについて言えば、会津大学1期生が起業してできた会社です。大学がなかった会津若松市にコンピュータに特化した、非常に特徴的なカリキュラムを持った大学ができた。それに対する、地元の期待というのは、そこにいることで非常に強いと感じます。地方だから首都圏の会社だからというのは、本社のある場所の違いに過ぎません。地方の情報化という点から言えば、我々はそれを肌身で感じる立場にいます。そうしたニーズにも応えていきたいと思いますし、それは可能だと思います。「地域から国興し」という精神は、シンクの経営理念でもあります。私たちは会津を離れません。
眼光紙背 ~取材を終えて~
俗に“会津の三泣き”と言われるのだという。閉鎖的な土地柄だけに、そこに入りこむためにいじめられて一泣き、受け入れられるとその人情の厚さに感激して二泣き、最後は会津を離れるときその辛さに三泣きするのだという。
会津大学の開学は、会津の人々にとっても、地域経済にとっても大きなインパクトを与えた。富士通の半導体工場があり、IT分野になじみのある土地ではあるが、そこから派生する産業は電子部品など一部にとどまる。
大学発ベンチャーはすでに20社以上を数える。ソフト産業の拡大は、今後の地域経済の発展のカギとなる。
上野社長は会津大学1期生であり、大学発ベンチャーの嚆矢。地元から、あるいは大学からの期待も大きい。事実、会津大学同窓会の会長も務めているのだ。その決意にあるように、会津を離れて“三泣き”することはなさそうだ。(蒼)
プロフィール
上野 文彦
(うえの ふみひこ)1973年生まれ。千葉県出身。93年4月、福島県立会津大学の開学とともに入学。98年1月、同大在学中に友人とシンクを設立し代表取締役社長就任。2001年3月、同大コンピュータ理工学部卒業、4月に同大大学院博士前期課程入学。03年8月、会津IT産業協同組合理事就任。福島県情報産業協会の運営委員も務めている。
会社紹介
福島県立会津大学は93年、日本初のコンピュータ専門単科大学として開学した。学生の数よりコンピュータ端末の台数が多い、UNIX環境が当たり前、授業の半分以上は英語で、とユニークな教育形態で知られる。上野文彦・シンク社長はその1期生。学生時代に友人らと立ち上げたシンク(SYNC)の由来はシンクロナイズ(同期)。同社のCI(コーポレートアイデンティティ)であり、経営理念には会津大学の建学精神である「地域から国興しを実現する」を掲げる。当初は「コンピュータの家庭教師」から事業をスタートさせた。現在はUNIX、Linux、UML、Javaなどをコア・コンピタンスにソフトウェア開発事業、ネットワークソリューション事業などを営む。地元自治体や製造業、会津地区に半導体工場を持つ富士通など顧客の幅を広げている。また、地元だけでなく東京をはじめとして首都圏でも事業展開している。