ソフトウェア開発の海外流出でSE・プログラマの雇用は危機にされされている──。IT技術者育成に力を入れてきた慶應義塾大学の大岩元・教授はこう警鐘を鳴らす。国内の貧弱なプログラミング教育を抜本的に見直し、人材戦略を改めなければ日本の国際競争力が低下しかねない。“ジャパンシフト”を進める中国・インド。グローバル環境の変化のなかで最良の選択は何かを聞いた。
60万人の雇用が危ない!技術者育成能力に懸念
──長年にわたってIT人材を育成してこられた大岩先生が、SE・プログラマの雇用が危ないと警鐘を鳴らすとはどういうことなのでしょうか。
大岩 例えば業務アプリケーションをプログラミングなしに生成するツールが登場したらプログラマはどうなるのでしょうか。画期的な日本語教育法が出てきたらどうですか。日本語の壁に阻まれて十分に活用できなかった海外の優秀なSE・プログラマを活用できるようになります。中国やインドには優秀な技術者が山のようにいるのですから。
IT人材の育成がいかに重要かを20年前から説いてきましたが、グローバル規模で起こっている変化を目の当たりにすると、これまでにない強い危機感を覚えるのです。
プログラムソースの自動生成は南米ウルグアイ発祥の開発ツール「ジェネクサス」が注目されていますし、日本語教育では岩崎美紀子先生(岩崎言語教育プログラム開発社長)が考案した手法を見て正直驚きました。ビジネスで実践的に使える日本語をわずか4か月で効率的に習得させてしまいます。予想を超える変化が、今起こっているのです。
──ジェネクサスや岩崎式日本語教育プログラムの斬新な発想と成果に驚く人も少なくありませんが、大きなうねりにはなっていません。大手SIerやユーザー企業の多くは静観の構えです。
大岩 ジェネクサスを使いこなす技術者の数がまだ少ないですし、岩崎式日本語教育法も普及しはじめたばかりです。しかし国内IT産業の構造を大きく変える可能性があります。IT技術者の育成能力の低さ、深刻なIT人材の不足はジェネクサスの登場や新しい日本語教育法の成立などによって劇的に変わる。IT業界はこうした変化を呼び込む弱点を抱えているのです。60万人ともいわれる情報サービス産業の就労者の多くは仕事を失うことになりかねません。
──雇用が確保されなくなるとは、穏やかではないですね。
大岩 中国やインドでは高等教育機関でプログラミングの高度な技能を教えています。それを身につければ、そうでない人に比べて5─10倍の給料が得られる。日本や米国ではどうか。プログラミングを学んだからといって収入の差はこれほどには開きませんよね。こうなると学生の熱意が違ってきます。
国内では業務アプリケーションの要件定義が曖昧なことが多く、できあがったものに何度も手直しをかけながら完成度を高めていくという手法がみられます。契約内容も米国ほどはっきりしていないなど商慣行も違い、日本語の壁もある。そのためソフトウェア開発のオフショア移転が進まず、海外の優秀な技術者を十分に活用できなかった。こういった状況が雇用を守ってきたのではないでしょうか。
──海外オフショア開発は広がっていますが、ベンダーは国内雇用を減らしてまで海外に発注するでしょうか。
大岩 少しずつ確実に変化しています。日本語の壁は低くなり、中国やインドのソフト開発ベンダーは新規ビジネスの開拓先として日本をターゲットにしています。いわゆる「ジャパンシフト」です。彼らは優秀な人材を大量に動員して日本の仕事を取りにきています。
景気好転で国内のIT需要が増えている時に人材が不足していれば、海外に求めるのは必然的な流れになる。米国がインドへの海外オフショアで成功しているように、日本語ができる優秀な中国やインドの技術者を身近に感じるようになれば、一気にシフトが起こることは十分にあり得ます。そのうち頭脳明晰で日本語の堪能な中国やインドの技術者にシステムの要件定義までお願いすることになるかもしれませんよ(苦笑)。
遅きに失した感もあるが、本質に踏み込んだ教育を
──教育者として、日本の技術教育のどこに問題があるとお考えですか。
大岩 日本の教育機関は本当の意味でのコンピュータサイエンスを教えてきませんでした。これには日本のコンピュータ産業の歴史的経緯も関係しています。国策もあってIBMの互換製品の開発から始まった国内IT産業は、基本的にIBM製品より安くていいものをつくれば売れるというスタンスでした。互換ビジネスなので新規にコンピュータサイエンスを研究する動機も弱い。
教育機関側もコンピュータサイエンスは「情報科学」や「計算機科学」などの切り口で始まりましたが、実際は物理、電気・電子、数学など基礎分野に偏重してしまった。つまりレイアが低いんです。コンピュータサイエンスというよりはエレクトロニクスに終始する傾向が強い。コンピュータを活用するような高いレイアの研究が十分になされないまま現在に至っています。
そうこうしているうちに、コンピュータが爆発的に普及してアプリケーションを開発する技術者が大量に必要となり、コンピュータサイエンスを専門に学んでいない文系の学生までもがSE・プログラマとして動員されるようになります。
──この危機を回避するよい手立てはあるのでしょうか。
大岩 ひょっとすると遅きに失したかもしれません。ソフトウェア開発の海外流失に歯止めをかける妙案はなく、ただ地道にコンピュータの本質的な教育を行うしかありません。産官学が力を合わせて人材育成に投資することです。中国やインドは国をあげてIT技術者の育成に取り組んでいるのですが、日本の政府はソフトウェアの人材育成に熱心ではなく、投資額が少ない。
企業においても若手技術者のおかれた状況はひどすぎる。数か月の訓練で現場に投入され、早朝から深夜まで作業に追われる。しかも、人月単価は長期的にみれば下がる傾向にある。安い賃金で技術者を派遣したり、単純なコーディング作業に追われるだけの仕事では若い人は集まりません。優秀な人は逃げだすでしょうし、残って従事する人たちは体がもたない。欧米諸国でも似たようなことが起こっています。先進国では海外技術者を使いこなす人材が求められているのです。
──人材戦略を抜本的に改める必要がありそうですね。「コンピュータの本質的な教育」とは何ですか。
大岩 これまでのコンピュータ教育の問題はハードウェアの中身やソフトウェアの仕組みばかりに重点が置かれていたことです。技能だけでは海外との報酬の差を埋めるのは困難でしょう。Javaや.NETなどの最新のプログラミングスキルを身につけ、中国やインドの技術者の技能を少しばかり上回ったとしても相対的な報酬がまるで違うので長続きしません。
仕組みを十分に教えたうえで「これにはどういう意味があり、何が目的か」を徹底的に学ばせることが大切なのです。プログラミングを学ぶ過程で、これは何をして、どういう目的を達成するのかを常に意識して、深く理解させるのです。
目的も分からずに技能だけを叩き込んで、すぐに仕事をさせて稼ごうとする教育やビジネスはもう成り立ちません。
プログラミングにしっかりと意味づけする教育を行い、目的意識を植え付けてこそ国際競争力がある人材が育ちます。そもそもすべての産業はIT抜きで語れない時代です。突き詰めれば日本の国際競争力を高めるためにも、プログラミングの教育体系を抜本的に見直すしか手立てはないのです。
My favorite 英語辞書と「外郎薬(ういろうぐすり)」。単語の動詞パターンが記してあるのが気に入っているのだが、英語の教授法の変化もあって同様表記の新版はもう手に入らない。外郎薬は悪酔い防止用だとか
眼光紙背 ~取材を終えて~
「英国では学部で120時間、修士で800時間、博士で5000時間の開発プロジェクト経験に基づいて研究を行う。ひるがえって日本の大学はどうか。ソフトウェアの開発組織そのものがない」と大岩教授は嘆く。
「文字の読み書きを身につけるために学校教育が始まった。今は“言葉の仕組み”であるプログラムを教えるために学校教育が変わらなければならない」
コンピュータのあらゆる動作はプログラムによって規定される。コンピュータの何たるかを理解するにはプログラムの何たるかを学ばなければならない。プログラムが言葉の仕組みである以上、きちんと教えれば誰でも習得できるはずだ。
「高等教育では何を目的としたプログラムなのかを理解すること。Javaだ、.NETだと言語だけの技法にとらわれていては海外の優秀な技術者にコストで負ける。言葉で何を描くのかの目的意識を持つことが真の情報リテラシーだ」と強調する。(寶)
プロフィール
大岩 元
(おおいわ はじめ)1965年、東京大学理学部物理学科卒業、71年、同大学院理学系研究科博士課程修了。理学博士。同大理学部助手、豊橋技術科学大学講師、同助教授、同教授を経て92年、慶應義塾大学環境情報学部教授。情報処理学会フェロー。ソフトウェア技術者育成法やソフトウェア開発方法論の研究を行う。
会社紹介
大岩教授が教鞭を執る慶應義塾大学の湘南藤沢キャンパスでは、学生に実際の開発プロジェクトを経験させている。学内の情報システム担当者などから需要を聞き出し、ソフトウェア開発に必要な要件を定義。内部設計を行い開発フェーズに入る。自分たちが開発するソフトウェアの目的や意味を一連の工程のなかで学んでいく教育手法だ。コンピュータ理論やハードウェアの仕組み、プログラミングの技法に偏重しがちな従来のIT教育とは一線を画す。「何のためのソフトウェアなのか」という目的意識を重視したソフトウェア開発方法の研究に力を入れる。