人ありて我あり~IT産業とBCNの昨日、今日、明日~

<人ありて我あり~IT産業とBCNの昨日、今日、明日~>連載8 経営のイロハを教えてもらった

2006/12/04 16:04

週刊BCN 2006年12月04日vol.1165掲載

 「最高の恩人の一人」と奥田喜久男(BCN社長)が感謝の意を表するのは故中島敏氏である。日本IBMの常務時代に知己を得て、その人柄、識見に惚れ込んだ奥田は、BCNの最高顧問に迎え入れ、薫陶を受けた。(石井成樹●取材/文)

元日本IBM常務 中島敏氏

■懐の深さに感銘

 奥田が、日本IBMの常務だった中島敏氏を知ったのは、業界新聞の記者時代である。その新聞は、コピー機など事務機をメインの取材対象にしていたため、日本IBMにはほとんど出入りしていなかった。社にオフコンの記事を任された奥田は、IBMが「システム32」で代理店販売を開始したと聞いて、その最高責任者に会わせてほしいと取材を申し入れたところ、応対に出てきたのが中島氏だった。

 「IBMはコンピュータのリーディングカンパニーだから、社員もみな、頭が高いだろうなと思っていた。ところが中島さんは違った。名前も知らないであろう若輩の記者に対しても、懇切丁寧に説明してくれる。うちは代理店販売は初めてなので、知っていることは教えてよ、とまで言ってくれて、私も生意気盛りの頃だから、一種の情報交換のような取材になった。懐の深さ、人間的な魅力にまず惹きつけられた」

 以来、奥田の取材には気さくに応じてくれて、中島さんが後に日本ビジネスコンピューター(JBCC)の社長に就いた頃には「カラオケに行こうか」と誘ってもらえるような間柄になっていた。「最初にカラオケに行った時、中島さんが歌ったのは『唐獅子牡丹』だった。外資系の会社で常務までやった人が唐獅子牡丹、あまりのギャップの大きさに驚いたことを鮮明に記憶している」と懐かしむ。

■“やるかやらないか”

 その中島氏をコンピュータ・ニュース社(当時)に招こうと思ったのは「経営を教えてもらいたかった」からだ。「それまで、新聞を発行することだけを考え、夢中で走ってきた。だが、ふと気がつくと、経営については何も知らない。もっと会社を大きくしようと思ったら、経営を学ばないといけないと思うようになった」。1991年のことである。 「創刊から10年、パソコン業界ではそれなりに評価されだしていた。それで天狗になり、社業をおろそかにして、社員から批判されることもあった。経理面で裏方として私を支えてくれていたのは日比野正久さんという監査役だったが、90年の暮れに亡くなられ、動揺した。組織とはどうあるべきかを本気で考え出したのは日比野さんの他界が契機になった」

 「経営の師には誰がいいかと考えた時、数人のなかで中島さんを思い浮かべた。IBMはアメリカでも超優良企業であり、中島さんが身につけた最先端のマネジメント手法を学びたい。それを教えてもらいたいと思った」からである。ただ、中島氏はJBCCの社長であり、うかつに持ちかけられる話ではない。「相談役に退かれたのが1993年、それならいいか」と、その年の8月にコンタクトを取った。「もっと会社を大きくしたい、そのために経営の真髄を教えて欲しいと、思いのたけをぶつけた」。奥田の真剣さに打たれたのか「じゃ、月に1回、食事でもしようか」ということになった。その機会に奥田の考え方や事業の構想などをじっくり聞こうというわけだった。

 「81年から93年までの会社関係の書類、折々に書きためてきた会社経営に関するメモ、経理帳簿などを段ボール箱に入れて中島さんのところに送った」。それをきちんと読んでくれて、的確なアドバイスがもらえるようになった。94年6月、中島氏はJBCCの相談役も退くことになり、それを機にコンピュータ・ニュース社に移っていただくことになった。その時、「私のやることが奥田さんにとっても、コンピュータ・ニュース社にとっても、ハッピーになるかどうか分からないよ」とクギをさされたことが「すごく印象に残っている」という。

 「組織とはな、収益とはな、コストとはなと、経営のイロハを教えていただいた」。中島氏は、02年に体調を崩し退任したが、02年6月28日付のメールが会社を去るにあたっての最後のメッセージになった。

 「今後とも大事なことは、“やるかやらないか”。一度目標を立てれば、目標に対して、到達する道を見つけられるか、否かです。入社してから言い続けてきた“帰り着く港を持たない船の帆を風は決して押さない”。事を興すは人にあり、事を成すは天に在りと申します。 Von Voyage! 健やかな御航海を祈る!」

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