セイコーエプソンのトップに4月1日付で就任した吉田潤吉社長は、米国とシンガポールに計12年にわたって駐在し、海外ビジネスの知見を蓄積してきた人物だ。シンガポール駐在時に大容量インクの将来性にいち早く気づき、帰国してすぐ「エコタンク」搭載プリンターの開発に参画して製品化に尽力。世界販売台数1億台を突破するヒット商品につなげた。今は複合機や家庭用プリンターをサブスクリプション方式で利用できるサービスの普及に力を入れる。外部環境の変化に素早く対応し、ビジネスモデルを柔軟に変えて成長を目指す。
(取材/安藤章司 写真/大星直輝)
ASEANで大容量インク需要を知る
――今般の米国の通商政策の変更は、グローバル市場で事業を展開するエプソングループにとってどのような影響がありますか。アジア地域は対米黒字の国が多いこともあって高い関税がかかる可能性があると懸念されています。
トランプ政権による関税の変更については、まだ流動的な面が多く冷静に対応しなければなりません。どれほどの影響が出るのか未知数ではあるものの、全世界のサプライチェーンに影響が及ぶのは間違いなく、当社が持つグローバルネットワークを最大限活用して、リスクを最小限に抑えられるよう努めます。外部環境が激変するのはグローバルビジネスにつきものですし、環境に適応した企業が勝ち残ってきた歴史を踏まえれば、あまり悲観的にならず、かといって楽観的にもならず対応していきます。
――吉田社長は海外勤務が長く、海外の事業環境の変化への対応では経験豊富だとお聞きします。
米国とシンガポールに都合12年駐在していました。最初の駐在は1994年からの米ロサンゼルスで、ビジネスパーソンとしてはまだ駆け出しの30歳のときでした。2回目の駐在は2005年からのシンガポールで、ASEANとインド方面のビジネスに従事しました。
――北米ではどんなビジネスを担当されたのですか。
デジカメとプロジェクター、スキャナーの3製品を北米市場で立ち上げる仕事に携わりました。90年代はインターネット黎明期で、各家庭にPCが本格的に普及し始めたのに伴い、PCとつなげて使うデジカメやプロジェクター、スキャナーの市場が急速に立ち上がり始めた時代です。印象に残っているのはプロジェクターで、北米で認知度ゼロの状態から数百億円規模に一気に拡大できたことを今でもよく覚えています。
デジカメはカメラ付き携帯電話やスマートフォンの登場で市場が縮小してしまいましたが、スキャナーについてはフラットベッド型はプリンターと統合して複合機へと進化したり、文書の高速読み取りに特化したドキュメントスキャナーとして発展したりして、今につながっています。
――シンガポールでの駐在期間はどのような仕事をされましたか。
駐在先はシンガポールでしたが、担当地域としてはASEAN全域とインドを中心とした南アジア地域を受け持っていました。このとき家庭用プリンターの交換インクについて、純正品ではないサードパーティー製のインクが多く使われている実態を知りました。規格や品質が異なる非純正品の使用は、インクヘッドの目詰まりなど不具合の原因になるため、メーカーとしては推奨できません。そうしたこともあって、シンガポールから帰国してすぐに大容量のインクを搭載できる「エコタンク」のプロジェクトに参画しました。
エコタンク販売は累計1億台を突破
――エコタンク方式のプリンター開発に参画するきっかけになったのがシンガポール駐在だったのですね。
エコタンク搭載モデルは従来のカートリッジ方式に比べて3倍ほど高くなってしまうので、販売パートナーには印刷枚数が増えれば増えるほど割安になるエコタンクの狙いを丁寧に説明して、理解していただけるよう努力しました。少量を印刷するだけならカートリッジ方式のほうが使い勝手がよいですが、私がASEANで見たような家庭用プリンターで大量印刷するのであればエコタンク方式のほうが経済的であると訴求してもらうようお願いしました。
10年にインドネシアから販売を始めて、その後は南米、中国、欧州、北米、日本と順次世界展開を進めていき、エコタンク搭載プリンターの販売台数は累計1億台を突破しました。エコタンク方式は製品化すれば自然と売れていくというものではなく、印刷ボリュームに応じてカートリッジかエコタンクかどちらが経済的か、本体価格とのバランスも含めて提案していくことが大切になります。インドネシアなどの成長国はエコタンクと相性がよい一方で、法人向け複合機が普及している成熟市場への展開は慎重に進めていった結果、国内へのエコタンク導入は16年からとなりました。
――24年度(25年3月期)は商業印刷向けのソフト開発を手がける米Fiery(ファイアリー)を約845億円で買収しています。
ファイアリーは印刷イメージを作成するラスターイメージ処理(RIP)や、印刷工程を管理するワークフローなどのソフトを開発している会社で、商業印刷におけるデジタルフロントエンド(DFE)領域でビジネスを伸ばしています。
――RIPはセイコーエプソンでも開発しているのではないですか。
当社でも開発していますが、当社が自社の大判プリンター向けのRIPが中心であるのに対してファイアリーはマルチベンダーの印刷機械に対応しており、顧客対象は印刷所などの商業印刷を手がける会社となります。
当社としては産業分野の商品ラインアップを拡大していく戦略の一環でグループに加わってもらいました。年商規模は約300億円、従業員数約800人とDFEソフト開発ベンダーとしては相当大きな規模です。まずは当社の大判プリンター向けにファイアリーの技術を応用して、当社のグローバルの販路で拡販していくのと同時に、独立性を保ちながら、彼らの顧客に当社製品やサービスを提案するクロスセルを推進することで売り上げを伸ばします。
プリンターのサブスク利用を推進
――セイコーエプソンは法人向け複合機でもインクジェット方式を採用している数少ないメーカーですが、改めてインクジェットの利点を教えてください。
インクジェット方式はレーザー方式に比べて圧倒的に省電力であることが利点です。環境負荷軽減は当社の経営理念の一つでもあり、脱炭素社会を実現するに当たって環境性能の高いインクジェットの競争優位性は高いと自負しています。過去を振り返れば脱フロンを積極的に進めてきた実績があり、脱炭素でも世界をリードできる企業であることを目指しています。
――プリンター関連では、月額料金で利用できるサブスクリプション型の「ReadyPrint」サービスも始まっています。これまでの「エプソンのスマートチャージ」とはどう違いますか。
14年からスタートしたエプソンのスマートチャージはオフィス用途を中心とした複合機ビジネスの一環として手がけているのに対して、20年にオランダからサービスを始めたReadyPrintは一般家庭も含めた定額サービスと位置づけている点が違います。維持メンテナンスや消耗品の状況をオンラインで確認して、本体不具合の修理対応やインク配送を自動化するサービスです。オンラインでサービスを提供する仕組みは、当社自身のビジネスモデルを多様化していくDX事業の一環でもあります。欧州でのサブスク利用者は順調に増えており、順次グローバル展開を進めていく予定です。
――国内ではどうですか。
ReadyPrintのサービス名称ではありませんが、国内販売会社のエプソン販売では学習塾を運営する浜学園と学習塾向けICTコンテンツ開発のスタディラボと協業して、「浜学園Webスクール」サービスで使うプリンターとスキャナー機能を備えた家庭用複合機をサブスク方式で提供しています。学習教材をオンラインで配信し家庭用プリンターで紙に出力し、回答を記入したあとスキャナーで読み取って学習塾に戻す仕組みですが、サブスクサービスを浸透させていく一つの手段として異業種と協業するのも有効だと見ています。
眼光紙背 ~取材を終えて~
座右の銘は「恬淡(てんたん)明朗」、さっぱりとして明るく朗らかで、自由闊達に意見を言えるような雰囲気づくりを大切にしている。従業員やビジネスパートナーと「良いチームワークを発揮してこそ良い仕事ができる」との信条から、共通の目標に向かってチームメイト一人一人が難関を乗り越えて力を尽くせる環境整備を重視する。
サッカーに例えれば、「点を得る共通の目標のために、場合によっては攻守の持ち場を入れ替えてでもゴールに球を入れることを追求する貪欲さが結果につながる」と説く。役割を超えて共通の目標に向けて全力を出す最強のチームづくりに取り組む。
先入観なく事に当たる「虚心坦懐」も心がけている。米国の通商政策の変更や、それにともなうサプライチェーンの変化など、外部環境が大きく変わろうとも、慌てず平静に対処し、粛々と変化適応を成し遂げる構えだ。
プロフィール
吉田潤吉
(よしだ じゅんきち)
1964年、東京都生まれ。88年、慶應義塾大学経済学部卒業。同年、セイコーエプソン入社。2012年、プリンター事業戦略推進部長。20年、執行役員DX推進本部副本部長兼P事業戦略推進部長。24年、取締役執行役員プリンティングソリューションズ事業本部長。25年4月1日、代表取締役社長に就任。
会社紹介
【セイコーエプソン】2025年3月期の連結売上高は前年度比3.5%増の1兆3600億円、営業利益は同25.1%増の720億円の見込み。直近では約845億円を投じて商業印刷向けのデジタルフロントエンド(DFE)ソフトなどを開発する米Fiery(ファイアリー)をグループに迎え入れている。連結従業員数は約7万5000人。