視点

ウェブログの取り柄

2004/07/26 16:41

週刊BCN 2004年07月26日vol.1049掲載

 流行りの「ウェブログ」あるいは「ブログ」は、言ってみれば、「ネット上の日誌」のようなものだ。この新しさはどこにあるのか? ネットとのつき合いには、当面の不便がいくつかある。1つは、不特定多数の雑多な情報源から、過不足のないこれぞという情報をどう引き出すかという検索の問題だ。例えば、7年前、「Java」と「入門書」というキーワードで検索すると、洋書が500冊ほどでてきた。さらに1ダースに絞り込むのには数週間を要したのだった。今年、「C」と「入門書」とで検索してみると、和書3000冊でてきた。若手にお勧めの1ダースほどの推薦書へと絞り込むのにやはり2週間かかった。

 結局、版元・著者・書評・評判・改版の有無・売れ行き・目次・索引・「まえがき」・「あとがき」などから、粗っぽく一次絞込みをやって、あとは書店で手にとってページをブラウジングするしかなかった。コンテクスト情報が決め手になること、5年前と何にも変わっていない。もう1つの不便は、不特定多数による匿名の掲示板利用である。相手の顔が見えない、またお互いの日本語力に錯覚があるなどから、つまらない論争が巻き起こるのが日常茶飯事だ。実は、論争にもなっていなくて、ほとんどいつでも誹謗か中傷だ。

  三文小説や言語論なら、藤沢周平や吉本隆明を読んでいれば失望することはない。ネット上ならば、「がんばれゲイツ君」や「MSウォッチ」を見ておけば、いまのパソコンソフトの不全さを見誤ることはないようになってきた。その延長上にあるのが、多分「ほぼ日刊イトイ新聞」や「青空文庫」である。そっちの情報に興味がある人にとっては、安心して付き合える。ブログは、これぞという情報発信者にあたればめっけものだ。入力が楽だから、気張らない浴衣がけの情報まで手に入るところがよい。ちょうど、藤沢周平がまだ壮健でその全集が増えていくのを眺めているようだ。

 人の情報活動のステップ、つまり、(1)情報の選択・取り込み、(2)その意味づけ、(3)その意義づけ、(4)さてその反応、において(1)と(2)の信頼感をいささか改善したところがブログの1つの意義といってよいようだ。いつでもどこでもそうだが、IT技術は小道具・手段に過ぎなくて、問題は藤沢周平や吉本隆明のような情報源を持ち合わせる人生かどうかが勝負であるのは自明のことだ。「日誌をつける」のは、「一種の生涯学習だ」という視点については、また改めて。
  • 1