IT業界のグランドデザインを問う SIerの憂鬱

<IT業界のグランドデザインを問う SIerの憂鬱>第6回 派遣ビジネスの源流をたどる

2007/05/14 16:04

週刊BCN 2007年05月14日vol.1186掲載

 今太閤という言葉がある。侮蔑的な意味ばかりでなく、一代で名と財を成した人物に特有の賑やかさ、きらびやかさへの羨望も含まれている。ITサービス業界でいえば、大川功という人物がその代表格だ。1968年、大阪にコンピューターサービス(CSK、現CSKホールディングス)を設立、2001年3月、心不全のため74歳で死去。ITサービス業界における同氏の33年間は、ほぼ10年刻みで変化した業界の軌跡と重なっている。派遣ビジネスの源流となった「大川流」を検証する。(佃均(ジャーナリスト)●取材/文)

大川流が生んだ成功方程式

■ITサービスの「今太閤」

 大川功。

 1926年、大阪・船場の服地問屋「大川商店」の次男坊に生まれ、1948年早稲田大学専門部を出た。在学中、重い肺結核を患い、世に出たのは30歳のときだった。実兄が営む会計事務所を手伝っているうち、1962年のこと、日本IBMの営業マンがコンピュータの売り込みにやってきた。

 兄の指示で「IBM1401パンチカードシステム講習会」に出席したのは、このとき船場界隈の問屋を相手に受託計算サービスを行う新会社設立の計画があったからだった。その兄が急逝した。設立された大阪計算代行に入社したのが転機だった。

1966年、大阪計算代行が資金繰りにつまずいて倒産、同年10月に設立されたばかりの日本計算センターの大阪支店に移籍。ここでのちに丸栄計算センター(現トランスコスモス)を創業する奥田耕己氏と机を並べ、同社東京本社に勤務していた橋本勲氏(のちユニバーサル電子計算を創業)と知り合った。

1967年、コンピュータ・システムの運用管理に関する講座に出席。講師は日本電信電話公社東京電話局で電話料金計算システムの運用を担当していた谷村外志男氏(のち日本情報研究センターを創業、現NJK)だった。谷村氏は当時を振り返って、「大川さんは、わたしの話を真剣に聞いていた。早い時期に運用管理の重要性を理解した一人だった」と振り返る。大川氏がコンピューターサービスを設立したのは、翌年10月だった。

 1969年、大阪万国博覧会の職員の給与を計算するシステムと、駐車場管理システムの仕事が舞い込んだ。このとき会場警備を受注した日本警備保障(現セコム)の飯田亮氏と知り合った。また、万博の運営を通じて関西経済界の“ドン”松下幸之助氏の知遇を得た。龍の如く風雲を駆け昇るのはこれ以後である。

■大ボラは成功の始まり

 1970年代、コンピュータ業界はIBMシステム/370を中心とする大型汎用機(のちに「メインフレーム」と称される)が一気に全盛となっていた。システムを作るには大量のプログラマが、運用するにはこれまた多くのオペレーターが必要とされた。一方、大手企業はコンピュータ・システムを労働問題に発展させたくなかった。

 外部の別会社にデータ作成やプログラミング、オペレーションを発注すれば、労働問題を抱え込まずに済む。コンピューターサービスはこのニーズを吸収した。人さえ確保すれば仕事が受注でき、会社は利益をあげることができる。要員派遣というビジネスが成立した。

 「人を集めるには、会社が注目されな、あかん。注目されるには、ホラも吹かな、あかん。ホラも吹いとるうちにホンマもんになる。大ボラは成功の始まりや」

 会社に人目を集めるため、大川氏は裏地に龍を刺繍したきらびやかなスーツをまとうようになった。オフィスに毛足の長い絨毯を敷き詰め、新卒採用の新人研修をグアム島で行い、「大川イズム」を詰め込んだ語録を暗誦させ、ことあるごとに「上場一番乗り」「売上高1000億円」といった目標を口にした。それは従業員を教義と現世利益でつなぎとめる手法だった。

■脱派遣のジレンマ

 「情報サービス業=装置産業」を目指したインテックの金岡幸二氏、「ソフト業=情報システムの設計事務所」を理想とした構造計画研究所の服部正氏らは、コンピューターサービスの急成長を苦々しく感じていたに違いない。陸軍飛行学校出身、東大卒、日本計算センター会長の経歴を持つ金岡氏から見れば、大川氏は「何ごともカネ、カネ、カネ。儲かってナンボの浪速商人」でしかなかった。

 1974年1月、東京で開かれたソフトウェア産業振興協会(ソフト協)の賀詞交歓会で、会長の服部氏は挨拶のなかで、「この業界には多彩な企業がある。しかし看護婦しかいないのに病院を名乗るのはいかがなものか」と述べた。それを聞いていた大川氏は憤然と会場を後にし、以後、業界活動に参加しなくなった──という逸話がある。服部氏の指摘が大川氏の痛いところを衝いたのは言うまでもないが、憤然と退席したのは、当の大川氏も現状に忸怩たる思いがあったからに違いない。

 その後、大川氏は日本IBM、野村證券、電子技術総合研究所などから人材を招聘し、派遣から受託への転換を図ろうとした。あるいは川崎市黒川に教育センターを建設し、「これからはパソコンの時代だ」と全社員にパソコンを配布した。先端技術の研究開発、VANサービスへの参入などは、大川氏にあっては「大川流からの決別」の表明であり、情報サービス業界へのメッセージだった。だが実は大川氏自身が放つカリスマ性こそが、体質転換の最大の障害だったのだ。

 コンピューターサービスの成功は、大川氏にとどまらず業界の成功体験として認識され、後続の多くのソフト会社が「大川流」を真似た。そのとき当人の関心は派遣ビジネスでも自分の後に続く同類のソフト会社でもなく、独自の技術に立つベンチャーの育成だった。業界はジレンマを抱え込んだのだ。そのこともまた、「今太閤」の名に相応しい。

 棺を覆うてもなお、大川氏についての評は定まっていない。「情報サービス業に株式公開の道筋をつけた」と功を讃える一方、「IT技術者の派遣を恒常化した」と批判する向きがある。ただ、その寝室は書籍の山で埋め尽くされ掃除することを許さなかったとか、廊下ですれ違う平社員にフルネームで声をかけたといった逸話から浮かび上がるのは、一流の経営者たらんとした意思である。そしてまた、自らの言葉で経営のあり方を語ろうともした。

 「語り継ぐ経営」こそ、いまのITサービス企業経営者に求められているのかもしれない。
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