旅の蜃気楼

毛利家の墳墓群に統率力をみる

2006/12/04 15:38

週刊BCN 2006年12月04日vol.1165掲載

【萩発】名前が似ていると親近感を覚える。数年前、山口県の萩を訪ねた。山と川と海に囲まれた三角州のこぢんまりした街だ。その昔、毛利輝元は西軍総大将を務めた関ヶ原の戦いに敗れて萩に落ち延びた。徳川幕府から提示された3つの場所から、萩を選んだ。理由はその三角州が完璧な自然の要塞だからだ。街を取り囲む山に登って展望すると、一目瞭然だ。毛利家は萩で260年間永続し、松下村塾で学問を受け継いだ青年たちが維新の志士となって、徳川時代の幕を閉じさせた。

▼松下村塾の記念館を訪ねた。明治時代の様子がうかがえる歴史博物館だ。そこには、現代のルーツがある。初代首相伊藤博文をはじめ、岸信介、佐藤栄作の歴代首相の顔写真が並ぶ、そして安部晋三第90代首相となる。山口県は8人もの首相を輩出した。山口県民の国家観には何か特別な思いが底流にあるのだろうか。それとも、毛利家の藩学の真髄に奥義のようなものがあって、今も維新の時代のような流れはまだ続いているだろうか。それは毛利家のお墓を見て感じた。14代まで続く萩藩の藩主は、黄檗宗の東光寺に3代から11代の奇数の藩主が眠り、臨済宗の大照院には2代から12代の偶数の藩主が眠る。その整然とした墳墓は、小さな萩の街の東西の端にあって、三角州を護る要塞になっている。

▼今でこそ、Googleアースで見れば、地上の様子は手にとるように見ることができる。だが、鳥瞰する術がなかった時代にあっても、完璧に整えられた墳墓群を形づくっている。その背景にあるのは統率の力だ。連綿と続いた14代の藩主の詳細な歴史を紐解けば、整然さをつくる力の跡がそこかしこに見えるであろう。関ヶ原の戦いから406年。今も毛利家の息づかいが感じられる萩の街だ。

▼冒頭に書いた似た名前とはこうだ。萩の街を歩いていた。昼食も食べずによく歩いた。3時ごろにお腹がすいた。小さな間口の店で竹輪を焼く様子が見えた。美味しかった。あまりの旨さにお土産にして、自宅に送った。河村蒲鉾店の店主・烏田久男さんから今でもはがきが届く。「お元気でいらっしゃいますか」との添え書きと、名前の3文字が同じことに親しみを覚えて、つい注文する。焼きぬき蒲鉾は旨い。(BCN社長・奥田喜久男)
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