企業向けパソコンのビジネスモデルが変わる可能性が出てきた。きっかけは増加するセキュリティ事件とシンクライアント化への動きだ。セキュリティを強化したいユーザーと、低迷するパソコンの収益力を改善したいメーカーの思惑が一致して、企業内のクライアント統合に向けた動きが早まってきた。長年続いてきたクライアント・サーバー型のモデルに、抜本的な見直しを迫る大きなうねりが始まっている。(安藤章司●取材/文)
2年で1割がシンクライアントに
■セキュリティを足がかりに「儲からない事業」から脱却 セキュリティ強化の流れのなかで、メーカーは指紋や静脈のログイン認証装置を取り付けたり、ハードディスクドライブ(HDD)を暗号化する仕組みを次々と採用。少しでも他社と異なる付加価値をつけることで、需要の発掘や、企業向けパソコンの収益改善に取り組んできた。
しかし、ファイル交換ソフトのウィニーなどによる情報漏えいが相次ぎ、パソコン事業は依然として「儲からないビジネス」の代表格の烙印を押されたまま。決定的な差別化には至っていないのが実状だ。メーカーの間からは、早々とパソコン事業を手放したIBMを評価する声さえも聞こえてくる。
こうした厳しい状況から脱却する手段として注目を集めているのが、シンクライアント方式によるクライアントの統合化だ。分散したパソコンの機能をコンピュータルームに集約し、集中的に管理することでセキュリティを強化する。ユーザーとベンダーの思惑が一致することによるビジネスの拡大が期待されている。
統合には高度な技術力が求められるだけにメーカー独自の技術力を発揮する余地が広がる。ここで付加価値を発揮すれば、差別化が可能になり粗利率を拡大できる。
HDDを内蔵しなくても済んだり、高性能なCUP(中央演算装置)が必要なくなるケースも出てくるため、パソコン単体のビジネスだけで見れば、販売単価は下がる可能性がある。ただ、コンピュータルームに統合するための高性能なハードウェアやソフトウェア、これに伴う技術料などシステム全体としての付加価値は高まる。仮想化やオンデマンド技術など従来のクライアント・サーバー型のモデルでは適用困難だった新しい技術も活用できる。
メーカーの社内では「パソコン担当の事業部は泣くが、サーバー部隊にとっては新たなビジネスチャンス」(メーカー幹部)とされ、全社トータルで見れば大きくプラスに振れると予測する。
コモディティ(日用品)化が急速に進み、1台あたりの粗利率は数%というケースもある現在のパソコンビジネスに比べれば「収益構造の抜本的な変革」(メーカー幹部)と、粗利拡大の突破口に期待を寄せる。
■初期投資の費用は大きいが、長期的には運用経費の削減に 付加価値の高いサーバービジネスにおいては、HDD1つ取り上げてもパソコンとは異なる価格設定が可能だ。たとえば同じ容量のHDDでも、サーバー用のものはパソコン用に比べて「2-3倍」(メーカー関係者)高くても売れる。メーカーからすれば「おいしいビジネス」だ。
システム全体の初期投資の増大といった課題もあるが、統合化による維持費の削減でカバーできるとメーカーは分析する。ユーザーはパソコンの故障対応やソフトウェアのアップデートなどにかかる人件費などでパソコン1台あたり年間数十万円のコストをかけているとされる。多くはユーザー企業の内部で吸収しているために表面化しにくいものの、クライアント数が多ければ多いほど維持管理費は確実に膨らんでいる。情報漏えいなどのセキュリティリスクも高い。
メーカーは、パソコンのライフサイクル全体でかかってきたユーザーのコストを算出し、この額よりも少ない価格で提示することで購入に結びつける考えだ。統合化により削ったコストを、クライアントリソースのオンデマンド化やディザスターリカバリ対策など新規の投資に振り向けることもできる。
シンクライアントを巡っては過去にも何度か波があったものの、ベンダー側の加熱ぶりとは対照的にユーザーの対応は冷ややかで、大きなうねりにはならなかった経緯がある。
■ユーザー側にも大きい利点 メーカーも需要の強さに驚く  | | シンクライアント | | | パソコンのCPUやHDDなど主要な機能をコンピュータルームで一括して管理する手法。とりわけ、大量の情報を保持し、故障頻度が高いHDDを集中的に管理。情報漏えいのリスクを低下させ、運用コストを大幅に削減できる。 シンクライアントの方式は複数ある。操作画面を転送する「画面転送型」、ブレードPCを使う「ブレードPC型」、Cドライブをサーバー側に仮想的に生成するとともに、クライアントのCPUや各種デバイスをフルに活用する「ネットブート型」、パソコンの機能そのものをサーバー内に仮想化してリソースを最適配分する「仮想PC型」などがある。 NECは「仮想PC型」、日本HPと日立製作所は「ブレードPC型」とメーカーごとに力を入れる方式は異なるものの、「どの方式が主流になっても対応できる」(メーカー幹部)よう、市場の成熟度に合わせて柔軟に対応できる体制を整えている。 | | |
だが、今回は様相が違う。ユーザー側に強い動機づけがあり、「ベンダーが需要に応え切れない」(平松進也・日本ヒューレット・パッカードパーソナルシステムズ事業統括デスクトップビジネス本部本部長)ほどの盛り上がりを見せている。メーカーも行き詰まったパソコンビジネスを立て直すチャンスと見ており、今後2年程度で企業向けパソコンの約1割がシンクライアント方式などによる統合管理へ移行すると予測するハードメーカーもある。
仮にビジネス向けの年間出荷台数が今の700万台規模と同じだとするならば、単純計算でおよそ70万台がシンクライアント化する可能性が出てきた。
NECではこの1年間でおよそ500件もの引き合いが殺到し、企業向け商品の1ジャンルに対する数としては「過去例がない多さ」(平智徳マーケティング推進本部マネージャー)と驚きを隠さない。07年度(08年3月期)には、企業向けパソコン市場全体の約1割がシンクライアント方式などによって統合化されると予測する。日立製作所も来年度(07年3月期)は「10万台規模」(宮本繁・情報・通信グループゼネラルマーケットビジネス統括本部ビジネス企画本部本部長)の出荷台数に手応えを感じる。
今後5年間のスパンで見れば、かつてワープロ専用機がパソコンに吸収されたように、現在のハードウェアとしての企業向けパソコンも、コンピュータルームに集約される可能性がある。そうした動きを見据えた「研究開発投資もすでに始めている」(日本HPの平松本部長)とメーカーの開発競争が激化している。パソコンの収益構造を抜本的に変えるだけに、クライアント統合事業の成否によっては勢力図が大きく塗り変わる可能性が出てきた。
セキュリティ対策や企業ガバナンスの強化の必要性などから、ここ数年間でサーバーの統合やストレージの統合が急速に進んできた。統合化のメリットを理解しているユーザーの一部は、分散したままのクライアントパソコンに違和感を感じ始めている。セキュリティのリスクやコスト面での問題意識とパソコンビジネスを見直そうとするメーカーの危機感--。両者の方向性が一致したとき、クライアント統合は一気に加速することになりそうだ。