印章メーカーのシヤチハタは近年、SaaS型の電子印鑑・決裁サービス「Shachihata Cloud」の普及に力を入れている。「シヤチハタ」と呼ばれるインキ浸透印「Xスタンパー」のイメージが強い企業だが、早くからデジタル事業を手掛けてきた。ややもすると既存事業を否定するような動きのように見えるが、舟橋正剛社長は、デジタルにおいても「シヤチハタが便利」と感じてもらうことが使命だと強調する。新型コロナ禍を背景に飛躍のときを迎えているデジタル事業の展望を聞いた。
(取材・文/藤岡 堯 写真/大星直輝)
鳴かず飛ばずの歴史
──シヤチハタといえば「はんこ」のイメージですが、1995年には電子印鑑サービスを開始するなど、ITソリューションも早い段階で手掛けているそうですね。デジタルの領域に乗り出した経緯はどのようなものだったのでしょうか。
私が入社する前のことで、直接は携わってはいませんが、「Windows 95」のリリースを契機に、紙の上での決裁がPCへと移り変わっていくことへの危機感があったと聞いています。そこで、アスキー・ネットワーク・テクノロジー(当時)と共同でシステムを手作りしたことが始まりです。
そこから世の中の流れに合わせ、OSやデバイスの変化にフィットするように開発を進め、最近ではクラウド、サブスクリプションのサービスに至りました。ただ、ありていに言いますと、95年から新型コロナ禍前までは「鳴かず飛ばず」だったんですよ。年間2億円前後の売り上げで、会社の一事業として、採算的にどうなの、というところは当然ありました。
それでも、アナログで承認にシヤチハタを使っていただいたところに、それがデジタルになったら「シヤチハタはさよなら」になってはだめだと思っていました。デジタルでも「シヤチハタがあって便利だね」と言ってもらえるようにすることが、われわれの使命ということです。
DXといってもデジタルに業務を合わせるのではなく、紙を使っていた業務を、デバイスが変わっても、そのままできるようにすることが根本的な考えです。われわれはIT企業ではないので、そのあたりで差別化を図っています。日本は中小・零細企業が9割以上です。皆さんが(デジタルの)利用を始めるのは、これからですし、わかりやすく提案できるものを伝えたいという思いが今は強いです。
──企業理念にある「便利」「楽しさ」「安心・安全」という価値を提供できるのであれば、はんこという物理的な形である必要はないということでしょうか。
物理的な形である必要がない、と言いますか、物理的な形でなくても提供しなければならないという気持ちです。電子決裁は基本的に、表面的な印が付いていなくとも、書類がセキュアな状態にあることは担保されています。それでも、社内決裁、社外との契約を問わず、誰が確認したかという印が載っていたほうがわかりやすく、仕事もしやすい。お客様から電子認証、電子決裁において「はんこが要らない」という声が多ければ、別の形に変わっていたと思います。とはいえ、まだ可視化できるような印が残っているということは、お客様も使いやすさを感じているということでしょう。
コロナ禍で押印の廃止やはんこ不要という話題が上りました。確かに、不要な場面でもはんこを押しておこうということがあったのだと思います。ですので、本当に不要なところに押す必要はないでしょう。ただ、仕事をする上で、フローを可視化できることは大切ですし、そこにこだわっていくべきだと思っています。
細かな対応は「はんこ屋」だからこそ
──Shachihata Cloudの強みはどの点にあると考えますか。
基本的には、アナログの業務をそのままのかたちでデジタルに持っていけるため、非常に簡単に電子決裁を導入できます。そして、月額110円からという低価格で始められるため、ハードルが低い。決裁分野とはアナログで長年付き合っており、(フローの)回しやすさという点で違いがあると言えます。
一般的な決裁ツールはウェブ上の入力フォームのような形式が多いですが、われわれの製品は紙のフォーマットをそのまま使えます。システムについて何も知らなくても、(電子で)はんこさえ押せば決裁ができます。ウェブフォームになると、決裁文書のイメージが変わってしまいます。人は今まで紙の文書を扱ってきたので、そこに慣れがあるものです。紙の文書の多くは「Word」や「Excel」で作成されており、Shachihata Cloudはそのフォーマットのまま使えます。
電子決裁を入り口に、お客様へ提案をしていくと、会社ごとにニーズが違っていることがわかります。例えば、出退勤の機能をつけたいとか、チャットがあると便利だとか、名刺管理ができるといいなとか、お客様の希望は各々異なるので、それぞれにサービスをカスタマイズしていく部分は深掘りしていくべきだと考えています。また、中小・零細企業ではDXと言われても、効率化はしたいがどこから手をつけていいかわからなかったり、DXに関する行政の補助金はあるものの、どう申請していいかわからなかったりといったこともあります。何をやっていいかわからない、というところからお手伝いしたい。
大きなIT企業だと、いずれもなかなか採算が合わない取り組みかもしれません。これはわれわれがはんこ屋であるからこそです。1件1件受注し、版下をつくって、カスタマイズして商品を提供させていただいた会社ですので、当たり前のことなのです。
──パートナービジネスの展望はいかがですか。
パートナー制度はあり、私どものサービスを担いで、再販していただくことには昔から取り組んでいます。ただ、われわれのサービスは基本的に低価格ですので、(パートナーにとっては)そこからどうやって利益を出すかという話になってしまいます。とはいえ、現在は多様なアプローチで、パートナーがまとめて運用するということもできていますので、担いでいただきやすくなっている面もあります。
私どものサービスを(他社に)提供することも考えられるでしょう。例えば、丸の中に名前をきちっと収めて、日本人がはんことして認められるデザインにするという作業は、60年以上手がけているのでわれわれには当たり前のことですが、他のサービスをみると、「なんだこれ」と感じるようなマークになっていることがあります。契約で使えて、デジタル上でもぱっと見ただけで、印章の質で相応の人物が決裁したと認識できるようにするのは意外に難しく、他業種にはなかなかできません。
ビジネスのキーワードは「印」
──これからのIT事業の位置付けをお聞きします。
今後の柱としたいです。コロナ禍をきっかけに認知度が高まり、ようやく10億円ベースにもっていけるぐらいになりました。2025年には35億円を狙い、さらには50億円ぐらいを継続できるサービスとして確立したいです。当社で言うと、50億円の売り上げは海外事業と同規模となりますので、それと同じレベルにまで育てたいです。
一つの事業をつくることは難しいですが、担当部署は諦めずに取り組んでいるので、絶対に世の中の役に立つと言いますか、われわれがやらなくてはならないものがあるはずです。デジタル、DXで言えば、例えばNFTは認証という部分で親和性があると感じています。シヤチハタのNFTだからとても使いやすい、そういうものに仕立てることができればいいですね。
私どもはスタンプ台をつくることから、およそ100年前に創業しました。いずれスタンプ台が使われなくなると見込み、ゴム印とスタンプ台がなくても押せるほうが便利だろうと判断してスタンパー(インク浸透印)へと移り、大ヒットしました。95年には紙がなくなる可能性があるということで電子印鑑を始めています。前の事業を否定しながら進んでいるように見えますが、結果としては全て共存している。いろいろなことを考えていく必要があり、一本足打法では難しいでしょう。
──IT事業を含め、ビジネス全体の今後の目標は。
われわれのBtoBの事業はオフィスの中に入らせていただくことが多いです。これからはオフィスの「モノ」だけでなく、サービスとして役立てられるビジネスモデルにも注力したい。そこでも「印」(しるし)がキーワードになるでしょう。結構いろいろなことができるはずです。
眼光紙背 ~取材を終えて~
シヤチハタの製品には、店頭で見かけるスタンパーをはじめとした既製品だけでなく、実は別注品も多い。工業製品に品番や検査印をつけるなど、金属やプラスチックに印をつける特殊な用途も少なくないという。多様な用途に応えられるのは、ゴムの製造からインクの配合、プラスチック成形まで手掛ける技術力の賜物だが、これらに加えて「現場の声が基本にある」という。
顧客の中に入り込み、現場に隠れている困りごとをすくい上げ、技術力を生かしてソリューションを提供する。このサイクルが企業としての信頼を生む。100年近い歴史の中で、消費者のニーズに大きな変化が生まれようとも生き残ってこられたのは、常に現場の声に耳を傾ける姿勢を貫いたことも大きいようだ。
世の中は「脱はんこ」の方向へと進んでいる。実際、20年、30年という長いスパンでみると、スタンプ台や朱肉の売り上げは緩やかな下降線をたどる。苦節30年にしてようやく成長の緒についたデジタル事業は、今後の柱となりえるか。それもまた、いかにユーザーの声を拾えるかにかかっていると言えるだろう。
プロフィール
舟橋正剛
(ふなはし まさよし)
1965年生まれ、名古屋市出身。米リンチバーグ大経営大学院修士課程修了後、電通に入社。主に企業のプロモーションを担当したのち、97年にシヤチハタ入社。経営企画やマーケティング部門を経験後、常務、副社長を経て、2006年から現職。
会社紹介
【シヤチハタ】1925年に前身となる舟橋商会が設立。乾かないスタンプ台「万年スタンプ台」の販売を開始。41年に社名をシヤチハタ工業に変更。65年にはインク浸透印「Xスタンパー」を開発する。99年にシヤチハタ工業と販売部門であるシヤチハタ商事が合併し、現在のシヤチハタに至る。捺印分野だけでなく、文具全般、電子印鑑やフォントサービスなどデジタル分野を手掛ける。2022年6月期の単体売上高は163億円。