セキュリティであれプライバシーについてであれ(要するに何ごとにつけ)、世の中は、「インターネットの普及が背景にある」という言葉で片付けたがる。すべてとは言わないが、そのような傾向にある。

 そもそもインターネットなるものは、その名が付く以前から地上に存在していたし、日本でも1980年代末にUNIXユーザーやコンピュータ・サイエンスの研究者の間では利用されていた。VAN(Value Added Network)とパソコン通信が全盛の当時、「インターネット」という言葉を聞いて、いったい何のこっちゃ、と思ったことを記憶している。一般に普及したのは90年代、なかんずくWindows95が登場した95年以後であることは周知の通り。

 インターネットが普及したのは、もちろん便利だからだが、その背景には20世紀(ないし45年8月以後の戦後体制)の枠組み、もしくはパラダイムが破綻したことがあるのではないか。社会・経済を支えていた生産と消費の構造や雇用のあり方、ひいては人々の生活スタイルが変わった。様々な局面に制度疲労の弊害が顕在化し、価値基準が質的に変化した。事象の後追いであるにせよ法制度が見直され、小泉首相が「改革」を唱え、ニートやフリーターが増加したのはそのためである。

 20世紀型社会を「固定的な価値体系に基づく規律・統制・訓練の垂直型」とすると、90年代に始まった変化は「可変的な価値体系に基づく契約・連携・知験の水平型」と見ることができる。新しい社会・経済のパラダイム・シフトをインターネットが加速させたのは事実だが、それ以前に20世紀型パラダイムの破綻があったと捉えたほうが納得がいく。その起点を87年のプラザ合意に求めるか、92年のバブル崩壊に設定するかは意見が分かれる。

 インターネットを使ってビジネスを行っている事業者(ないしインターネット信奉者)たちが、「われわれが世の中を変えている」と言いたいのは分かるが、一過性の現象に過ぎず、本質ではない。政策立案者やメディアまでが、何ごとにつけ「インターネット時代」に帰結させようとするのは、あまりに短絡で近視眼的と言わざるを得ない。インターネットそのものでなく、「インターネット型の社会構造」をいかに形成し、そこにどのような価値を創出していくか、という論点が欠けている。