IT業界のグランドデザインを問う SIerの憂鬱

<IT業界のグランドデザインを問う SIerの憂鬱>第4回 情報産業を形づくった三傑

2007/04/23 16:04

週刊BCN 2007年04月23日vol.1184掲載

 脱メーカー、脱派遣、自主独立の気概だけで、情報サービス産業が“産業”として認知され、成り立つようになったわけではない。1960年代の後半、情報処理業の役割やソフトウェア受託開発業の価値を体系化し、ユーザー企業やコンピュータメーカーを説得する理論武装が必要だった。東京データーセンター(現TDCソフトウェアエンジニアリング)の野崎克己氏、富山計算センター(現インテック)の金岡幸二氏、構造計画研究所の服部正(まこと)氏らの業績を忘れるわけにはいかない。(佃均(ジャーナリスト)●取材/文)

「対等関係」の確立に腐心

■受託開発の黎明期

 日本の情報サービス産業の黎明期、プログラム作成でコンピュータメーカーから対価を取った最初の企業は、東京データーセンターだ。北日本砂鉄鉱業の経理部長だった野崎克己氏(2004年4月、78歳で物故)が1962年に東京・神谷町に設立した「東京機械計算事務所」が前身である。

 本社を東京・神田神保町に移して1年後の1966年11月、富士通信機製造の営業部長だった小林大佑氏(のち富士通社長、会長)が野崎氏を訪れ、「FACOMのコンピュータを導入してくれないか」と提案した。

見込み客に見せるデモ用として設置し、普段は富士通の技術者がプログラムのデバッグ用に使う。月額250万円のレンタル料は、富士通が「使用料」の名目で払う。「置かせてくれれば、お宅の会社の技術者を川崎工場のプログラム開発に受け入れる」という内容だった。

 亡くなる直前、野崎氏は当時の内幕を明かしてくれた。

 「非常に魅力的な提案だった。パンチマシンしかない会社に何億円もする電子計算機が入ってきて、しかも富士通と取り引きができて売り上げも上がる。でも、ちょっと待てよ、と考えた」

 それなら自社の技術者で富士通のプログラムをデバッグし、対価を請求したほうがいい。頑張って毎月250万円のレンタル料を払えば、富士通と対等の関係になれる──そう考えた野崎氏は、小林氏の提案を断って「受託契約」を逆提案した。コンピュータ用プログラムの作成を資本関係のない外部の企業が受託した最初のケースだった。

■計算センターを糾合

 東京データーセンターが富士通から有償でプログラム開発を受託するようになった頃、情報サービス産業の主流はデータ入力・作成サービスと受託計算サービスだった。当時、全国に開業していたのは約300社、その多くが地域の有力企業が出資する共同事務処理センターだった。

 富山計算センターもその1社だ。北陸電力など地元有力企業が資本金1000万円を出資して、1964年11月に設立された。初代社長は元北陸電力副社長だった西泰蔵氏で、キーパーソンともいうべき金岡幸二氏(1993年物故)は北陸製塩という会社の企画部長から専務として出向していたに過ぎない。

 ただし金岡氏は、富山県出身の名門石坂家の次男で東大卒の英才、富山県薬種業界の重鎮・五代目金岡又左衛門の名跡を継ぐべき人物だった。陸軍飛行隊で同じ釜の飯を食った“戦友”山本卓眞氏から「これからは電子計算機の時代だ」と吹聴されていた。

 「出資企業の言いなりにデータ処理をやっているだけでは面白くない。自力で営業して、自立しようと思った」

 コンピュータの処理能力を引き上げるために招いたのが、前号で登場した日本コンピュータ・ダイナミックスの下條武男氏だった。折から東京オリンピック直後の不況を抜け、日本全体が驚異的な経済成長の途上にあった。給与計算や在庫管理など受託事務計算の仕事が面白いように契約できた。

 日興證券から富山県商工会議所に移籍していた中尾哲雄氏(のちインテック社長、会長)は、「当時、すでに金岡さんはITという言葉を使っていた」と記憶している。インテックという社名は、そもそも「IT」が母体だ。この上昇志向が1967年、三菱電機との取引口座開設に結びつく。金岡氏が全国の計算センターを糾合する「日本計算センター協会」を発足させ、会長に就任したのも同じ年だった。

 「コンピュータメーカーによる計算センターのグループ化が活発だった。グループに入ればメーカーから仕事がもらえる。経営は安定するが、自主独立性はどこかに行ってしまう。メーカーにモノが言える組織が必要だった」

 メーカーどころか、金岡氏はユーザー企業にも、政府にも、歯に衣を着せず注文をつけた。最も知られるのは、通信回線の利用自由化にかかわる法制度の改革だ。計算センターにとってオンライン受託計算は新しい付加価値を生み出す“切り札”だったから、金岡氏は当時の日本電信電話公社や郵政省に正面から乗り込んでいった。それが1985年の電気通信事業法の制定、NTT分割に結びついたのはいうまでもない。

■ソフトウェア価値論を展開

 最も劇的なのは構造計画研究所の服部正氏だ。東大で建設学を学び、工学的手法による構造設計に従事した。初めは国の技官として放送電波塔や高圧電流を送る鉄塔の設計を担当し、1956年、個人の設計事務所として構造計画研究所を開設した。1961年にIBM1620を導入したのは、「徹夜の連続で構造計算をしていたのでは体力が持たない」というのが理由だった。

 最適なプログラムがなかったので、自分で作ったのが、ソフトウェア業に入るきっかけだった。建設設計のノウハウを援用し、部品を組み合わせてユニットを作り、ユニットとユニットを列車のように連結すればいい、と考えた。今でいう「モジュール・プログラミング」の手法を独自に編み出したのだ。

 静岡大学を出て、ほとんど学業の延長線上で服部氏の門下となった冨野壽氏(現・構造計画研究所会長)は、「服部さんが黒板に向かって、列車の絵を描く。そして部品化の重要性を熱っぽく語っていた姿を、今でも鮮明に思い出す」と語る。

 コンピュータ・プログラムではなく、設計を含めたソフトウェアにこそ価値があるとする服部氏の訴えに、起業したばかりの若手経営者が共鳴した。ソフトウェア・リサーチ・アソシエイツ(現SRAホールディングス)の丸森隆吾氏(現会長)、日本タイムシェアの伊藤正之氏などだ。そして、服部氏の主張がソフトウェア産業振興協会の真髄となっていく。1983年1月、東京での世界情報産業会議開催を目前にして逝去。東京・中野の構造計画研究所本社新館9階に、同氏の執務室が当時のまま残されている。
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