視点

ソフトウェアとの付き合い

2008/06/09 16:41

週刊BCN 2008年06月09日vol.1238掲載

 西洋文明がはびこりだしてから百年以上の間に、ずいぶんいろんな文物や出来事が、誰にも、どんな家系にも降りかかってきた。視点子の家系も含めて、ふつうの庶民はそれなりにしぶとくこの波に対処してきたようだ。

 「光と影」の影の部分にあざとく目を向けると、小学校では、母語を習得する前に、なんと英語をかじらせる一億総白痴化行為がはびこっていたり、英文法焼き直しの国文法がいまだに幅を利かせていたりする。これらは、元禄以来の読み書きソロバンの寺子屋教育からの退行というほかはないのだが、寅さんでなくとも、庶民は立派に国語を操ってびくともしていないところが微笑ましい。

 ソフトウェアについていえば、すでに1960年ごろ、アルゴルの処理系を関係者が挙って開発していたから、すでに半世紀以上経ったことになる。最初はプログラミングの時代だった。つまり、プログラム(コード)を「読み解き」「書く」のが使命だった。関係者はコンピュータサイエンスを研鑽した。次が、ソフトウェア工学の時代。ソフトウェアを建築物のように「作る」ことが使命になった。関係者はソフトウェアエンジニアリングやプロジェクト管理に苦労した。

 そして、いまや累積したプログラムやソフトウェアを「育てる」ことが、関係者、つまりプログラマや利用者の使命になっている。プログラムやソフトウェア、縮めて「システム」は、いまや食う・寝るところ・住むところに深くかかわっているから、この国の庶民なら、暮らしの「利便」「見識」や人としての「品格」「人品骨柄」を勘案して付き合わざるを得ない。

 そこで、まずどんなハードやソフトを選択するかが問われることになる。ほとんど「サチッタ(飽和した)」としか言いようのないパソコンにしがみつくのか? ケータイやDSやWiiのような、新しいインタフェースを求めるのか? この違いは大きい。というのも「大きいことはいい」「稼ぐには情報を隠そう」「人の足は引っ張ろう」「儲かるなら何でもありだ」という在来の路線にしがみつくか? 「小さいことはいい」「情報は公開だ」「オープン競争がいい」「儲けより品位だ」という新しい路線を選択するか? の違いになるからだ。

 というのも結論の急ぎすぎだが、これは〈明治以来の皮相西洋文明派〉や〈既得権益派〉と、〈反西洋文明派〉や〈庶民の見識派〉との対決という構図を想起させ、それに基づく行動を促すからである。
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