視点

線引きとは何だろう…

2010/10/07 16:41

週刊BCN 2010年10月04日vol.1352掲載

 20年ほど前の話になるが、アメリカ合衆国コロラド州ボゥルダー市で4年間ほど暮らしたことがある。その時にフォーコーナーズと呼ばれる場所を訪ねた。50州が合わさったアメリカにおいて、州の境界線が十文字に交わるところはここだけであり、ユタ州に左手・コロラド州に右手・アリゾナ州に左足・ニューメキシコ州に右足を置けば、四つの州を一気に制覇できる。

 だだっ広いコロラド高原の中に州名と州境を示した記念碑がぽつんとあるだけの場所である。私はそこで「境界線とは何だろう…」と思った。むしろ考えずにはいられなかった。当たり前の話であるが、周りを見渡しても地図上の十文字の境界線はどこにも見当たらない。なぜ人は線のないところに線を引きたがるのだろうか。

 よくよく学んでみると、線引きの正体が言葉(言語活動)にあることがわかってくる。ある言葉を発したとたんに、切れないものまでが切れてしまう。例えば、眉毛という言葉を発すると、眉毛とそれ以外の体毛が分かれて、眉毛だけを特別に切り出せるように。だからだろうか、昨今は男女にかかわらず眉毛をいじっている人が多い。何度も鏡を見ながら、眉毛とそれ以外の体毛の線引きをしている。それがままならないと、剃り落として、新たなものを描いたりする。まさに眉毛に対する極度の言語化ではなかろうか。

 この夏休みに青木塾なるものを開講し、19人の大学3回生たちに特別授業を行った。プログラミングの総復習から、バージョン管理・パッケージ管理・プロジェクト管理など、広範なこと(ソフトウェア工学)を実践的に水先案内した。

 その際にも「線引きとは何だろう…」と思った。30年ほど前に師匠から頂戴したプログラムを改変し、それを資料として配付したからである。記憶をたどれば、師匠も「先生からもらった」と言っていた。どこが師匠の先生のプログラムで、どこからが師匠のプログラムなのだろうか、確かに私が改変を施したところは分かるには分かるのだが…。正直に申せば、私が改変に使った知識や技術も、もともと私由来のものではない。多くの方々から教わったものである。50年以上も生きているので、その間に読んだ本や勉強した事柄は数知れない。どこからどこまでが自分なのかさえもはっきりしない。

 仕方がないので、この現状をそのまま塾生たちに伝えた。そして、付け加えた。線引きする暇があったら、どんどんプログラムを流布して伝承せよ、先人たちのように! と。
  • 1

関連記事

コンピュータ技術者の平均寿命を延ばす法

“ネット中毒”に効く薬は…

プログラミング言語と思考は不可分か