旅-経営者の目線-

<旅-経営者の目線->102.南オセアニアの旅-(5)マダン・ラバウル2

2005/06/06 15:27

週刊BCN 2005年06月06日vol.1091掲載

 夜中に雨が降り、晴れた朝を迎えた。まず山本五十六長官の頑丈な前進指揮所壕を見学し、次いで旧ラバウル東飛行場の滑走路跡に行き、そこから、10分ごとに勢いよく噴き上げるタウルア山の噴煙を間近に目撃し、その迫力に感動した。

 その後、爆撃機の残骸や戦争博物館など多くの戦跡を回ったが、降灰のために戦没者の慰霊碑に詣でられなかったのは残念だった。高射砲陣地があった現火山観測所からタウルア山やラバウル港など、シンプソン湾一帯を展望し、そのあまりにも美しい景観に息を飲んだ。

 ラバウルのマーケットは品物を地べたに並べただけのお粗末なものだったが、大勢の人で混んでいた。ここでは食べる物に困らず、衣類も安いので、住民に勤労意欲が乏しく、人々はあちこちに集っておしゃべりをしているという。

 ラバウルの住民は親日的で、昼食時にその1人であるヘンリー氏が日本の歌をいくつも歌ってくれた。帰りは塔乗時から猛烈な雨になり、視界ゼロの飛行だったが、マダン空港の着陸時は晴れになるなど、相変らず天候に恵まれた。

 この大戦ではラエからマダンに死の撤退をしたり、ラバウルからマダンに補給を強行したダンピール海峡の悲劇など、この辺り一帯で10数万の戦死者がでた。ここでも私の郷土部隊第41師団が中支戦線から転進を命じられ、マダン上陸を企てたが、空爆されて大損害を出した。その中には小学校の同級生も何人かいた。敵の制空、制海権下の上陸作戦で多くの命が失われ、辛うじて上陸できた者も、貧弱な武器で悪戦苦闘をさせられた。ここで戦死した多くの将兵の無念さを想って万感胸に迫った。
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