帳票ソフトウェアベンダーのウイングアークテクノロジーズ(内野弘幸社長)は昨年11月、持株会社(ホールディングス)に移行し、新たなグループ経営体制を敷いた。この再編は当初、株式上場へ向けた準備とみられていた。しかし実際には、自社を“実験台”として日本のパッケージソフト開発を「産業化」し、国産ソフトを世界へ羽ばたかせるための布石を打つ目的があったのだ。グループ会社の1社である北海道・旭川市の開発会社と内野社長への取材から、この狙いを探った。

旭川市内で最も高いビルにあるHITCOMからは市内が一望できる
(ウイングアークの内野弘幸社長=写真左と、HITCOMの阿部知社長)
スクラッチ開発の限界に気づく ウイングアークの内野社長は、昨年7月27日掲載の本紙「KeyPerson」欄でこう答えていた。「当社の現在の年商は100億円弱だが、世界に冠たるベンダーになるためには、年商1000億円の企業になる必要がある」と。そのためには、高品質なソフトをスピーディーに市場へ投下する体制づくりが必要不可欠だとも言及している。そして、その4か月後、ウイングアークを「1st(ファースト)ホールディングス」に商号変更し、会社分割によってウイングアークを販売専門会社とした。1stホールディングスの傘下には、中国・上海にある子会社を含め、国内外4社の開発会社を抱える体制に移行することが発表されたのだ。
国内のITサービス産業は、クラウドの普及などに伴って転換期を迎えている。この影響で受託ソフト開発数が減少の一途をたどり、大手ITベンダーも開発コストが安価な海外の「オフショア開発」へシフト。受託ソフト産業の大半を占める「下請け開発」中心の受託ソフト会社は、存在感を失いかけている。
そこには、日本独特のソフトビジネスの構造も大きく関わっている。米国では企業システムの8割がパッケージソフトで構築されているのに対して、日本の企業では8割がスクラッチ(手組み)開発だ。粗利の低いスクラッチ開発が浸透しているが故に、受託ソフト会社などの収益力が弱く、海外どころか国内でも生き残りに汲々としている状態だ。
「このままでは、日本のソフトベンダーの『ものづくり』は息絶える」。内野社長がそのことに気づいたのは30年ほど前のこと。内田洋行の子会社である日本オフィスメーション在籍中に旧来の「スクラッチ開発」に限界を感じ、その後に転籍したパッケージビジネスの先駆けをつくった翼システム在籍時から、「ソフト開発の『産業化』をしなければ」との思いを強くし、ウイングアーク設立時から現在のような体制構築を模索していた。
ソフト開発の「産業化」とはどういうことか。受託ソフト会社の多くは、大半を下請けでこなしている。だが、粗利が低く市場の変動に左右されるため、下請けだけでなく粗利の高いパッケージ開発に乗り出す。ところが、メジャーでなく認知度も低いベンダーが開発したソフトでは販売量に限界がある。そして、ここが肝心な点だが、こうしたベンダーには高度な技術力をもつ「天才プログラマ」が多く埋もれているのだ。
内野社長の言によれば、「プログラミングをしたいだけの天才プログラマは地方にたくさんいる」。そこで、ウイングアークのようなメジャーなパッケージベンダーを中核に、こうした開発やテスト作業などに専念できる技術者やベンダーを積極的に活用し、ソフト開発の「産業化」を図ろうとしているわけだ。そうすることで、下請けだけに頼っていてブレークスルーできない受託ソフト会社を世に出すことができ、埋もれたプログラマを発掘することができるという考え方なのだ。

Iターン、Uターン組など「天才プログラマ」が開発を支える
(左からUターン組の森晴彦マネージャー、Iターン組の諸岡貴志氏、Uターン組で札幌市内ベンダーに就職後に東京派遣が多く同社へ転職してきた田中利英氏)
HITCOMとの出会いが変えた 内野社長がこのことに気づかされたのは、日本オフィスメーションなどに在籍していた時代の人々との出会いがきっかけだった。その一人が旭川市にあるHITコミュニケーションズ(HITCOM)の阿部知社長だ。阿部社長が内田洋行系のオフコンディーラーである冨貴堂ユーザック(旭川市)に在籍していた頃である。内田洋行のオフコンディーラーを集めて開発力を競う「SEコンベンション」というイベントで、そのチャンスが訪れた。
SEコンベンションで阿部社長はこんな発表をした。「ソフト開発(当時はオフコンのカスタマイズ)で夜なべをしない。現在、大規模案件6件を並行開発している」。1980年代後半のことだ。当時、「1案件が完成するまで、その案件に力を注ぐやり方が一般的」(内野社長)だったが、阿部社長は当時すでに、現在でいう「オブジェクト指向」の開発手法を手がけていたことにショックを受けたという。
内野社長はこれに驚き、すぐに旭川の阿部社長の元へ飛んだ。「こんな自然環境が豊かな場所だからこそ、プログラミングに打ち込み、新しい手法も生み出せる」(内野社長)ことに気づかされたという。内野社長は翼システムに転籍しても、このことが脳裏を離れず、阿部社長が独立してHITCOMを設立するのを支援し、子会社化を成し遂げてしまう。阿部社長は当時も今も、「資金援助してくれるので、その面での心配をせずに、開発に専念できる」と、同年齢で旧知の仲である内野社長に敬意を表している。
旭川市で一番背の高いビルの上位階にあり、市内を一望できるHITCOMには、プログラミングに長けた技術者14人が在籍している。IターンやUターンで転籍してきた技術者も多い。Iターン組の諸岡貴志氏は、東京の大手ITベンダーにいたが、「プログラミングに専念できる会社を探していた」と、妻の出身地・旭川市で仕事場を探していたところ、HITCOMに出会い、家族で同市へ移住した。
HITCOMは現在、ウイングアークの情報活用ツール「Dr.Sum EA Datalizer」の開発や、サーバールームを利用したソフトのテスト・検証作業のほか、技術者の人材育成の場として役目を果たしている。
ITサービス産業情勢に詳しいある専門家は、こう漏らす。「受託ソフト会社の3分の2は、5~10年で消滅する」。このことはすでに現実味をおびている。いま何か行動を起こさなければ、日本のソフトの「ものづくり」は息絶える。ウイングアークの取り組みは、そのための“試金石”となることだろう。(谷畑良胤)