Special Feature
ディストリビューターサミット SB C&S、シネックスジャパン、ダイワボウ情報システム、ネットワールド、大手4社のトップが集合
2021/10/18 09:00
週刊BCN 2021年10月18日vol.1895掲載

「競争」と「協業」で日本をアップデート
週刊BCNが40年間にわたって追いかけてきたIT流通の世界は、テクノロジーの進化とともに複雑かつ多様な進化を遂げている。もはやそれは「ITビジネスエコシステム」を形成する主要なパーツと捉えたほうが理解しやすいかもしれない。地方やSMBも含めた日本社会のDX推進においては、ITビジネスエコシステムのダイナミズムが成否のカギを握る。そしてその中核を成すのが、ITディストリビューターだ。業界のキーマンとも言える大手ディストリビューター4社のトップが一堂に会し、BCN創業者・週刊BCN主幹の奥田喜久男とともに、IT市場の来し方行く末を語り合った。
(構成・文/本多和幸 撮影/大星直輝)
■参加者
SB C&S 代表取締役社長 兼 CEO 溝口泰雄
シネックスジャパン 代表取締役社長 國持重隆
ダイワボウ情報システム 代表取締役社長 松本裕之
ネットワールド 代表取締役社長 森田晶一
モデレーター
BCN代表取締役会長兼社長・週刊BCN主幹 奥田喜久男
紆余曲折を経て生き残った老舗大手各社のストーリー
「NetWare」が育てたコンピューターのビジネス利用奥田 ディストリビューターというのは、業界の中でもなかなか個性が強い方々が多いですが、これだけの大物に一堂に集まっていただいてうれしいですね。何を話そうか考えましたが、過去の話を3割、あとは未来の話をしましょう。
週刊BCNは今年で創刊40周年ですが、ソフトバンクと同い年です。(シネックスジャパンの前身の)関東電子は1962年設立ですからこの中では一番古いですね。ダイワボウ情報システム(DIS)とも(実質的な創業者である)山村(滋)さんの頃からのお付き合いですし、ネットワールドも紆余曲折がありましたね。
BCN
代表取締役会長兼社長・週刊BCN主幹
奥田喜久男
記者として最前線で皆さんの努力を見てきて、そんなに簡単に生き残ってこられたわけじゃないことを知っています。まずはどんな打ち手の結果として各社の今があるのか、開陳していただけますか。年齢順に行きましょうか(笑)、森田さん。
森田 一番バッターは緊張しますね。(サーバー専用のネットワークOSである)「NetWare」を提供していたノベルのディストリビューターとして、31年前に二つの会社がスタートしたのが当社の源流です。もともとのネットワールドという会社と、ネットサーブという会社ですね。それぞれ大塚商会とマクニカが株主でした。私は95年にネットサーブに加わったんですが、もともとはコンピューターメーカーにもいましたので、非常に面白いビジネスだと思いました。でも、これは調子が良かったから面白かったんですね。ご存じのように、ノベルの勢いが90年代後半に急速に衰えてしまって大きく状況が変わりました。
元のネットワールドもネットサーブも、親会社はいますから別に潰れはしないんですが、周りの人達からいろんな提案があって、2000年の合併に至るわけです。そんなことがあって、会社っていうのは勝ち残らないとつまらないもんだなというのを身に染みて感じまして。とにかく勝たないと駄目なんだと。合併した後、微力ながら仲間たちと一生懸命やって、負けないくらいには何とか生き残っているというところでしょうか。
代表取締役社長 森田晶一
奥田 森田さん、いつも控えめだけど、今日は控えめでなくていいからね。
森田 いやいや、私は控えめな人間ですから(笑)。
私自身は98年に契約したシトリックスとのお付き合いが非常に印象に残っています。テクノロジーに惚れ込んで、ぜひディストリビューターになりたいということで、自分で拙い英語で20枚くらいの提案書を書いて。気持ちが認められた部分もあるかもしれませんが、ディストリビューターにしてもらえたんです。合併した後にこのビジネスが急速に伸びまして、株主に「3年間はコミットする。3年後からは知りません、私がいるかどうかも分からない」と言った記憶があります。本当に苦しいときに助けてくれたシトリックスとの縁には、いまだに感謝しているんですね。
それと、ヴイエムウェアとの本当に幸運な出会いがあって、いまだに紹介していただいた元IBMの方などにお会いするとお酒の数杯ぐらいはご馳走いたしまして昔話をします。すごく光り輝くような経歴ではないかもしれませんが、残ってくれた仲間たちと楽しい仕事ができたというか、なんといっても幸せだったなと思っています。
奥田 年齢順だと、次は溝口さんですね。どうぞ。
溝口 まずは創刊40周年おめでとうございます。私自身も業界歴が40年ぐらいになります。昔はBCNの同業者も結構ありましたけど、ほぼなくなってしまいましたよね。森田さんもおっしゃいましたが、勝ち残っているというのは素晴らしい。
代表取締役社長 兼 CEO 溝口泰雄
奥田 お互いに、ですよね。
溝口 ソフトバンクグループの祖業であるディストリビューター事業は、孫(正義・ソフトバンクグループ会長兼社長)が初めてゲームソフトの流通をつくったことで立ち上がりました。PCがホビーの領域から浸透して、当初は我々の事業もそこに位置していたわけですが、「一太郎」や「Lotus 1-2-3」などの登場で、PCはビジネスに使えるぞと業界が変わっていった。これは非常に大きな転換点だったと思うんです。
さらに、先ほど森田さんがノベルの話をされましたが、NetWareが出てきて、コンピューターをネットワーク上で動かす時代が来た。当時はファイルサーバーとしての利用程度でしたけど、あれも法人向けIT市場を育てるキーファクターになったと思うんですね。
それ以降は“Wintel”の時代になって、マイクロソフトのOSとインテルのチップがアップグレードする度に新しいキラーアプリケーションが出るという繰り返しになりましたが、その動きを先取りしてビジネスをやってこられたという自負はあります。PCソフト流通から始めて、シスコなどネットワークの先進製品を持ってきたり、節目節目でポイントがありました。
同時に、「ザ・コン」を孫と一緒につくって、それがPCの普及に……
奥田 溝口さん、ザ・コンって言っても若い人は分からないかもしれませんよ。
溝口 失礼しました(笑)。秋葉原にラオックスと共同で「ザ・コンピュータ館」(07年閉店、かつては秋葉原の象徴だった)というPC専門店をつくって、家電量販店がコンピューターを本格的に売る、そして世間の皆さんがPCを認知する場をつくってきたんですね。
さらに時代が流れ、インターネットの時代になると、OSとチップが変わっても以前ほど面白いことは起こらなくなった。インターネットを経由して新しいサービスがどんどん提供され、世の中を動かすようになってきたわけです。そうしてクラウドが台頭する中でも、ポイントになるビジネスをいち早く手掛けられたという思いはあります。
奥田 溝口さんとは特に付き合いが長いから聞いちゃうんだけど、ソフトバンクグループはファンド事業を手掛けて、グループ全体としてもどんどん事業が多角化しましたよね。その中でSB C&Sは創業からの事業をやっていらっしゃる。これは溝口さんだからここまで来たのか、それとも溝口さんでなくても今の形があるのか、どう思います?
溝口 なかなか答えづらい質問ですね……。僕がいなくてもちゃんとやってきたとは思いますけど、生き残っているんだから何かの役には立ったんでしょうね。トラディショナルなビジネスモデルですけど、主力商材のニーズが一気に縮小してすごく大変な時期もありました。それでも業態を変えて成長を継続できましたし、そういう挑戦を楽しんでこられたとは思っています。
変革の歴史あり先人の決断が導いた成長
奥田 次は松本さんですか。ここもすごい会社です。
松本 40周年、おめでとうございます。我々は82年に始めた会社ですから、39周年、一歳年下ですね。当社も昔からのお付き合いですが、個人的にはBCNの記事を読ませていただいて、常に厳しい目線で記事を書かれるなあと思っていました。
代表取締役社長 松本裕之
奥田 あんまり警戒しないでください(笑)。
松本 当社の転機というと、やはりまずは繊維業界からこの業界に来た、という創業時です。先ほどお話があった山村も、実質的な創業者と言われていますが正確には2代目の社長なんです。
奥田 そうですね。よく存じています。
松本 奥田会長は山村からいろんな話を聞かれたと思いますが、もともとは工場のモニタリングシステムを手がけるということでできた会社がダイワボウ情報システムです。そして山村が社長に就任して、大和紡績の社内システムにNECの「ACOS」を全面的に採用したんです。その時にNECの特約店という看板をいただきまして。当社は実はNECの「PC-9800」シリーズとともに伸びてきた会社です。
当時はPC、プリンタ、モニターのセットで150万円ぐらいしましたかね。それを積んだ商用バンが倉庫に数十台も並んでいるという状態だったようです。今でこそ皆さんもかなり在庫を持たれていますが、当時はどこもそんなことはやっていなかったんです。山村からすると、いわゆる季節の反物はちゃんと在庫を持っていなければビジネスにならないという発想です。この発想が当時のIT業界で「ダイワボウ情報システムに連絡すると2~3日でモノが届くよ、便利だよ」という評判につながって、売り上げを継続的に増やすことにつながったわけです。
二つめの転機は、その後マルチベンダーにシフトしたことです。NECに加えて当時のコンパック(現HP)や富士通も手掛けることになりました。世界中のPCを扱うというのが山村のビジョンでしたからね。まさに彼の才覚だと思います。
もう一つポイントがあります。山村はある程度シェアを持っていないと絶対に生き残れない、だから早くシェアを取ろうと考えていて、そのために積極的に物流拠点を全国に整備しました。その後、97年に社長に就いた横山(満氏)の在任中に、24時間365日、在庫と仕切りを全て見ることができるパートナー向けポータルサイト「iDATEN(韋駄天)」をつくり、売れる仕組みを整えた。私は6代目の社長で初めてのプロパー社長なんですが、これらがDISを成長させ、市場やグループ内での存在感を高めてきた基盤になっていると思っています。
奥田 現在のダイワボウHDグループは、ITディストリビューター事業の売り上げが9割以上を占めていますよね。紡績から大きく業態を変えて、DIS単独で売上高1兆円を臨む規模になっている。39年でここまで業態を変えるっていうのは、大変な能力だと思うんですよね。
松本 大和紡績の信用があったからこそというのはあると思いますよ。資金繰りで苦労したとか、そういうことはなかったので。
奥田 そうですね。山村さんが「どんなビジネスでも成功させられる」と言っておられたのを思い出しますが、まさに桁外れの人でした。
それじゃあ國持さん、お待たせしました。前身から数えると歴史が長いですが。
國持 私がシネックスジャパンに入社したのは17年の終わりくらいですから、これまでの皆さんの話をうかがって、ちょっと同じレベルで濃密に歴史を語るのは難しいと感じています(笑)。
ただ、過去の歴史も含めて社内で共有しているストーリーはもちろんあります。62年に関東電子が創業して、電子機器・部品の販売からビジネスを始めたのですが、当時は競合が少ないけれどもニーズも局所的だったようです。ただ、PCやITを必要とする事業が国内でもどんどん立ち上がってくる中で、取り扱う商材もビジネスの規模もどんどん大きくなっていったんですね。
代表取締役社長 國持重隆
その後、89年に丸紅の資本が入り始めて、2001年に経営統合の話に進み、その過程で丸紅インフォテックに商号を変更しました。ここから数年が売り上げ的にはピークでした。ただ内情をみますと、先ほど森田さんから一本足打法のリスクというお話がありましたけど、同じような課題があったんですね。手広くやっている割には、特定のメーカーやヒット商品に頼っている部分が大きくて。売り上げの数字自体はいいものですから、中身の問題が隠されたままでなかなか需要が伸びない状態になって、10年に米シネックスに事業譲渡されることになりました。
当時の社長のボブ・ファンは九州大学出身で、日本の商慣習やビジネスの在り方をよく知っていたので、米国のモデルをそのまま持ってくるのではなく、日本のビジネスモデルをそのまま引き継いだんです。ただ、ボブの発想はやはりUSベースのグローバルカンパニーのものですから、相当葛藤はあったようで、なかなかやりたいことがやれないという状況だったようです。ボブ・ファンから社長が交代してもそのギャップは埋まらないまま、ここにいらっしゃる競合のディストリビューターと戦っていたわけなんですが、頭と体がバラバラに動いているようなもので、まともに戦えないんですね。
このままじゃいけないということで、5年前にUSからティージェイ・トロージャンが社長として派遣されました。おそらくそこで初めて、グローバル企業の一員としての働き方や考え方を理解しようという流れができたんです。私もたまたまデル時代にティージェイと話す機会があり、面白いな、この人と働きたいなということで移籍しました。ここが現在から見たときのシネックスジャパンの一番大きな転換点だったと思います。
奥田 懐かしい名前が出てきました。ボブとも随分お付き合いしましたが、日本の企業をグローバルにしていくのはすごく難しいという話はよく聞きました。皆さんに聞きたいんですが、やっぱり難しいものですか?
溝口 難しいですよ。うちも(米国の携帯電話端末販売会社である)ブライトスター(当時)と一回一緒になりましたが、海外のビジネスモデルをそのまま持ってきても日本ではうまくいかないので、そこは理解してもらっていました。
松本 一番難しいのは商慣習でしょうね。海外企業との契約条件や決済の交渉はいつも苦労しています。
國持 最も大きな違いを感じるのは、販売における貸し借りという概念です。米国では全てが契約ベースなんですよね。日本みたいに、ここでとにかく身を削ってでも支援するから、来年ビジネスが軌道に乗ったらうちからモノを買ってくださいね、みたいな考え方が成り立たないんです。でもそれだと、日本市場ではこれから伸びる会社や地方の小規模事業者などと付き合えない。
それでも我々は「グローバルハイブリッドディストリビューター」という舌を噛んでしまいそうなスローガンを掲げています。日本の商慣習をベースにした決済機能や物流機能の上に、グローバルでつくった価値のあるソリューションや、パートナーの販売やマーケティングを支えるプラットフォームを組み合わせ、ディストリビューターとしてのビジネスを再構築していくということです。
森田 そのあたり、シネックスジャパンはうまくやられていますよね。
國持 そう言っていただけるとうれしいです。
森田 反対に日本から外に出ていくというのは、特に流通業では無理でしょう。メーカーでもほとんど成功していませんから。

「競争」と「協業」で日本をアップデート
週刊BCNが40年間にわたって追いかけてきたIT流通の世界は、テクノロジーの進化とともに複雑かつ多様な進化を遂げている。もはやそれは「ITビジネスエコシステム」を形成する主要なパーツと捉えたほうが理解しやすいかもしれない。地方やSMBも含めた日本社会のDX推進においては、ITビジネスエコシステムのダイナミズムが成否のカギを握る。そしてその中核を成すのが、ITディストリビューターだ。業界のキーマンとも言える大手ディストリビューター4社のトップが一堂に会し、BCN創業者・週刊BCN主幹の奥田喜久男とともに、IT市場の来し方行く末を語り合った。
(構成・文/本多和幸 撮影/大星直輝)
■参加者
SB C&S 代表取締役社長 兼 CEO 溝口泰雄
シネックスジャパン 代表取締役社長 國持重隆
ダイワボウ情報システム 代表取締役社長 松本裕之
ネットワールド 代表取締役社長 森田晶一
モデレーター
BCN代表取締役会長兼社長・週刊BCN主幹 奥田喜久男
紆余曲折を経て生き残った老舗大手各社のストーリー
「NetWare」が育てたコンピューターのビジネス利用奥田 ディストリビューターというのは、業界の中でもなかなか個性が強い方々が多いですが、これだけの大物に一堂に集まっていただいてうれしいですね。何を話そうか考えましたが、過去の話を3割、あとは未来の話をしましょう。
週刊BCNは今年で創刊40周年ですが、ソフトバンクと同い年です。(シネックスジャパンの前身の)関東電子は1962年設立ですからこの中では一番古いですね。ダイワボウ情報システム(DIS)とも(実質的な創業者である)山村(滋)さんの頃からのお付き合いですし、ネットワールドも紆余曲折がありましたね。
BCN
代表取締役会長兼社長・週刊BCN主幹
奥田喜久男
記者として最前線で皆さんの努力を見てきて、そんなに簡単に生き残ってこられたわけじゃないことを知っています。まずはどんな打ち手の結果として各社の今があるのか、開陳していただけますか。年齢順に行きましょうか(笑)、森田さん。
森田 一番バッターは緊張しますね。(サーバー専用のネットワークOSである)「NetWare」を提供していたノベルのディストリビューターとして、31年前に二つの会社がスタートしたのが当社の源流です。もともとのネットワールドという会社と、ネットサーブという会社ですね。それぞれ大塚商会とマクニカが株主でした。私は95年にネットサーブに加わったんですが、もともとはコンピューターメーカーにもいましたので、非常に面白いビジネスだと思いました。でも、これは調子が良かったから面白かったんですね。ご存じのように、ノベルの勢いが90年代後半に急速に衰えてしまって大きく状況が変わりました。
元のネットワールドもネットサーブも、親会社はいますから別に潰れはしないんですが、周りの人達からいろんな提案があって、2000年の合併に至るわけです。そんなことがあって、会社っていうのは勝ち残らないとつまらないもんだなというのを身に染みて感じまして。とにかく勝たないと駄目なんだと。合併した後、微力ながら仲間たちと一生懸命やって、負けないくらいには何とか生き残っているというところでしょうか。
代表取締役社長 森田晶一
奥田 森田さん、いつも控えめだけど、今日は控えめでなくていいからね。
森田 いやいや、私は控えめな人間ですから(笑)。
私自身は98年に契約したシトリックスとのお付き合いが非常に印象に残っています。テクノロジーに惚れ込んで、ぜひディストリビューターになりたいということで、自分で拙い英語で20枚くらいの提案書を書いて。気持ちが認められた部分もあるかもしれませんが、ディストリビューターにしてもらえたんです。合併した後にこのビジネスが急速に伸びまして、株主に「3年間はコミットする。3年後からは知りません、私がいるかどうかも分からない」と言った記憶があります。本当に苦しいときに助けてくれたシトリックスとの縁には、いまだに感謝しているんですね。
それと、ヴイエムウェアとの本当に幸運な出会いがあって、いまだに紹介していただいた元IBMの方などにお会いするとお酒の数杯ぐらいはご馳走いたしまして昔話をします。すごく光り輝くような経歴ではないかもしれませんが、残ってくれた仲間たちと楽しい仕事ができたというか、なんといっても幸せだったなと思っています。
奥田 年齢順だと、次は溝口さんですね。どうぞ。
溝口 まずは創刊40周年おめでとうございます。私自身も業界歴が40年ぐらいになります。昔はBCNの同業者も結構ありましたけど、ほぼなくなってしまいましたよね。森田さんもおっしゃいましたが、勝ち残っているというのは素晴らしい。
代表取締役社長 兼 CEO 溝口泰雄
奥田 お互いに、ですよね。
溝口 ソフトバンクグループの祖業であるディストリビューター事業は、孫(正義・ソフトバンクグループ会長兼社長)が初めてゲームソフトの流通をつくったことで立ち上がりました。PCがホビーの領域から浸透して、当初は我々の事業もそこに位置していたわけですが、「一太郎」や「Lotus 1-2-3」などの登場で、PCはビジネスに使えるぞと業界が変わっていった。これは非常に大きな転換点だったと思うんです。
さらに、先ほど森田さんがノベルの話をされましたが、NetWareが出てきて、コンピューターをネットワーク上で動かす時代が来た。当時はファイルサーバーとしての利用程度でしたけど、あれも法人向けIT市場を育てるキーファクターになったと思うんですね。
それ以降は“Wintel”の時代になって、マイクロソフトのOSとインテルのチップがアップグレードする度に新しいキラーアプリケーションが出るという繰り返しになりましたが、その動きを先取りしてビジネスをやってこられたという自負はあります。PCソフト流通から始めて、シスコなどネットワークの先進製品を持ってきたり、節目節目でポイントがありました。
同時に、「ザ・コン」を孫と一緒につくって、それがPCの普及に……
奥田 溝口さん、ザ・コンって言っても若い人は分からないかもしれませんよ。
溝口 失礼しました(笑)。秋葉原にラオックスと共同で「ザ・コンピュータ館」(07年閉店、かつては秋葉原の象徴だった)というPC専門店をつくって、家電量販店がコンピューターを本格的に売る、そして世間の皆さんがPCを認知する場をつくってきたんですね。
さらに時代が流れ、インターネットの時代になると、OSとチップが変わっても以前ほど面白いことは起こらなくなった。インターネットを経由して新しいサービスがどんどん提供され、世の中を動かすようになってきたわけです。そうしてクラウドが台頭する中でも、ポイントになるビジネスをいち早く手掛けられたという思いはあります。
奥田 溝口さんとは特に付き合いが長いから聞いちゃうんだけど、ソフトバンクグループはファンド事業を手掛けて、グループ全体としてもどんどん事業が多角化しましたよね。その中でSB C&Sは創業からの事業をやっていらっしゃる。これは溝口さんだからここまで来たのか、それとも溝口さんでなくても今の形があるのか、どう思います?
溝口 なかなか答えづらい質問ですね……。僕がいなくてもちゃんとやってきたとは思いますけど、生き残っているんだから何かの役には立ったんでしょうね。トラディショナルなビジネスモデルですけど、主力商材のニーズが一気に縮小してすごく大変な時期もありました。それでも業態を変えて成長を継続できましたし、そういう挑戦を楽しんでこられたとは思っています。
この記事の続き >>
- ダイワボウ情報システムは「季節の反物」の在庫を揃えて成長してきた
- 大きな葛藤を経てグローバル企業になったシネックスジャパン
- ニューノーマルな働き方にIT業界の経営者はどう向き合うべきか
- IT流通の業界標準プラットフォーム立ち上げも議論すべき
- ディストリビューターと販売店、両方が変わることで日本のDXは進む
- 多様な市場には多様な個性を持つ複数のディストリビューターが必要
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