米NVIDIA(エヌビディア)は、同社の年次カンファレンス「GTC 2023」(3月21日~3月24日)で、国内の製薬業界を対象に、AIとハイパフォーマンスコンピューティングの活用を推進する方針を打ち出した。三井物産との協業で開発したスーパーコンピューター「Tokyo-1」を軸にしたプロジェクトで、“データ駆動型創薬”の実現を狙う。
(取材・文/五味明子 編集/齋藤秀平)
ヘルスケアの膨大なデータに着目
エヌビディアと聞くと「NVIDIA GeForce」などに代表されるゲーミングPC用GPUやコンピュータグラフィックスのイメージが非常に強いが、ここ10年ほどは、GPUとAIで培ってきた技術力と知見をベースに、ヘルスケアや物流、小売り、製造業など、エンタープライズのさまざまな業界に向けて多くのソリューションを提供している。
同社がヘルスケアに注力する理由は、あらゆる産業の中で、とりわけ膨大な量のデータを扱うからだ。特に深層学習を基にしたモデル構築には莫大なリソースが必要となる。現在、同社のヘルスケア事業は「NVIDIA Clara」というブランドの下、大きく「医療機器」「医用画像」「創薬」「ゲノミクス」の4分野でデータやワークロードに最適化したAIプラットフォームや開発キットを提供している。
例えば、CTや内視鏡といったGPUが搭載された医療機器向けには、Software-Definedで、かつニアリアルタイムな画像処理が可能な「Clara Holoscan」を用意。ゲノミクス向けでは、シーケンサーから読み取った大量の配列をGPUとディープラーニングで超高速に解析する「Clara Parabricks」がある。
同社は、開発ツールの多くをオープンソースで構築・提供しているが、医療用画像処理をAIで高速化するアプリケーションフレームワーク「MONAI」もオープンソースで提供しており、現在は画像処理研究におけるスタンダードとして広く使われている。
変革の“確率”と“速度”を上げる
3月のGTCでは、エヌビディア創業者のジェンスン・フアンCEOによる基調講演があり、ヘルスケアの領域においても大きな動きが示された。主要なものの一つとしてTokyo-1のプロジェクトが位置づけられた。
エヌビディア ジェンスン・フアン CEO
Tokyo-1を構成するハードウェアは、データセンターにおけるAIトレーニング性能を大幅に加速する「NVIDIA H100 TensorコアGPU」を8基搭載したAIインフラストラクチャ「NVIDIA DGX H100」で、現時点ではDGX H100が10ノード程度導入される予定となっている。プロジェクトの状況に応じて、ノードは順次拡大していくという。
DGX H100は、前世代の「NVIDIA DGX A100」より演算性能は3倍、ChatGPTなどで主流となっているTransformerモデルの推論スピードは6倍と、パフォーマンスが劇的に向上している。
プロジェクトでは、国内の製薬会社やスタートアップ企業に対して、Tokyo-1へのアクセス権を提供する。Tokyo-1の運用主体は、三井物産の100%子会社で、AI創薬支援サービスの提供と基礎研究を行うゼウレカとなっており、2023年10月の稼働開始が見込まれている。
今後のスケジュールでは、プロジェクトへの参画を表明しているアステラス製薬、第一三共、小野薬品工業の3社のほか、4月までに申し込みをした企業(限定5社)が10月からTokyo-1の利用を開始する。7月までに申し込みをした企業(同)については24年1月から利用できるという。
各企業は、DGX H100ノードにアクセスし、分子動力学シミュレーション、大規模言語モデルのトレーニング、量子化学、そして前述した新規分子構造を生成するジェネレーティブAIモデルなどのサービスを活用することが可能になる。つまり、より多くの製薬会社が世界最先端のAI創薬に特化したスパコンにアクセスするためのパスが準備されたといえる。
Tokyo-1のローンチを指揮した三井物産ICT事業本部デジタルサービス事業部デジタルヘルスケア事業室の阿部雄飛・室長は、日本の製薬会社が抱える課題として「研究難易度の上昇」「開発費の増大」「薬価の抑制」の三つを挙げる。
これらの課題に対して、グローバルではデータ駆動型のスピーディな創薬が加速しており、最先端のGPUとAIを駆使した開発が急増。製薬会社によっては、20~40台のスパコンを運用し、開発期間を大幅に短縮させることに成功しているという。
阿部室長は、GTCのセッションで「最新のスパコンをコアに据えたデータ駆動型創薬を実現し、国内の製薬業界が抱える課題の解決に貢献したい」とコメント。プロジェクトでは、Tokyo-1を「イノベーションハブ」に据え、▽最先端のGPUスパコン▽最先端のDXソリューション▽最先端の情報コミュニティーの三つを価値として提供するとし、「データ駆動型創薬に必要な計算機、ソリューション、人材育成のすべてを提供する。日本の創薬における“変革の確率”と“変革の速度”を一気に上げていきたい」と意気込む。
将来を見据えた提案も重要
前述したように、国内では、IT業界関係者の間でも「NVIDIA=GPUをコアにしたコンシューマービジネスのプレイヤー」という認識が強い。そのイメージから脱却し、“ヘルスケアAIのパートナー”としてのポジションを確立するためには、国内のパートナー企業との連携が非常に重要になってくる。
エヌビディア日本法人 山田泰永 マネージャー
ヘルスケアに特化したパートナー施策について、エヌビディア日本法人の山田泰永・メディカル・ライフサイエンス領域開発支援マネージャーは「現状、ヘルスケア分野に特化したパートナープログラムはないが、NVIDIAパートナーネットワーク(NPN)と呼ぶ既存のプログラムの上で、主にハードウェアやソフトウェア、サポートサービスの販売サポート面でさまざまなパートナーに協力してもらっている」と説明し、「ヘルスケア分野では、特有の知識が必要になるため、NPNパートナーに限らず、例えば、ゲノミクス領域などの特定領域に強みを持つパートナーと個別に連携するケースが増えている」と紹介する。
ヘルスケア業界では、非常に特殊な専門知識が求められる。この専門知識を持つパートナーをいかに増やしていけるかが、イメージを転換させていく上での大きなかぎになるだろう。
日本法人でTokyo-1の担当者を務めるエンタープライズ事業部ライフサイエンス事業開発担当の平畠浩司氏は、国内のパートナー企業に対して「創薬分野は、他業界と比べて知識が特殊なのでなじみにくいところがあるかもしれないが、少しずつ知識を深めてもらい、積極的にライフサイエンスのお客様とのコミュニケーションを増やしてほしい」とし、「海外と国内ではAI研究および社会実装に大きな開きがあり、現在進行形で差が広がっている。お客様に新しい付加価値を提供するためには、お客様から求められている目の前のことに対応することも重要だが、より積極的に将来を見据えた提案をしていくことも重要だ」とアドバイスする。
DXのユースケースとしても注目
Tokyo-1を提供するきっかけの一つに、AIの研究・開発における日本の地位の低下に対する危機感があったとみられる。1990年の日本のAI研究論文数は、米国と英国に続いて世界第3位となっていた。しかし、05年には中国に抜かれて第4位となり、15年にはインドとドイツにも抜かれて第6位にまで落ちている。さらに韓国やシンガポールにも迫られており、AI研究の基礎体力が落ちているといえるだろう。
その差がそのまま、現在のAI創薬の遅れにつながっているという危機感がTokyo-1ローンチの原動力となっているのではないだろうか。プロジェクトをハードウェアの面から支援する立場として、エヌビディアはどんな期待を寄せているのか、あらためて平畠氏に聞いてみた。
「デジタルで国内創薬を変革する、に尽きる。DXの取り組みが国内で始まってしばらくたつが、本当の意味のX、つまりトランスフォーメーションを目指している企業、実現できている企業はどの業界でも多くない印象を持っている。事業をトランスフォームするためには、覚悟と熱意、具体的なビジョンが必要だ。参画企業がそれらを分かち合いながら、イノベーションが起こることを期待している」
世界最先端のAIリソース、製薬業界における危機感、その変革に挑む覚悟と熱意、それらをもとに生まれたTokyo-1が、国内のヘルスケア業界にどのようなうねりを巻き起こすのだろうか。プロジェクトは、巨大なレガシー産業に挑むDXのユースケースとしても注目される。