今年9月、ギャレット・イルグ氏は、アドビシステムズ社長からSAPジャパンのトップへと電撃移籍した。さまざまな企業を経験するイルグ社長は、次のステージとしてERP最大手ベンダーを選んだのだ。そこには、どんな思いがあったのか。多彩な経歴を持つ経営者が今回、その理由と自身が大切にしている経営哲学、そしてSAPの中長期的な戦略を語った。キーワードは「顧客満足度向上」「パートナーとのアライアンス」そして「イノベーション」だ。
木村剛士●取材/文 ミワタダシ●写真
顧客に会うことを重視 1000人と対話済み
──アドビシステムズから突然の電撃移籍、大変驚きました。まずは経緯と理由を教えて下さい。
イルグ SAPジャパンに移籍する前、私は日本でハードやミドルウェアベンダーでビジネスキャリアを積み、直近ではアドビの社長として舵取りしていました。アドビは、流通モデルがすごく複雑で、掲げる目標も理想も高かった。その一方で投下できる経営資源には限界があった。そんな環境下でどう成長させるかを考え、執行能力を磨いてきたつもりです。
一連のキャリアで学んだことは、企業の成長にはアプリケーションをどうやって展開するかが重要だということ。ビジネスを成功に結び付けるためには、会社が持っているITツールを、どう的確に使うかがカギを握ると思うのです。アプリの使い方次第で、成功か失敗かが分かれるとさえ言っても過言ではない。アドビはSAP製品のユーザーで、私はSAPのテクノロジーがビジネスにどんなベネフィットをもたらすかを、使う側から模索していました。
そう思っているなかで、SAPから今回の(移籍の)話をいただきました。ビジネスマンとして次のステップアップを考えた時、SAPの場に立つことで過去25年のキャリアで信条としてきた「ユーザーに最善のものを提供する」ということが、さらに実現できると感じたのです。
正直に言うと、アドビを離れることを考えればかなり複雑な心境でした。だが、アドビは私が去る直前には組織として強く育っていたし、実行能力も伴っていたので移籍を決めました。
──就任から約2か月が経ちました。何に最も時間を費やしましたか。
イルグ 引き継ぎ期間がほぼなかったので、かなり目まぐるしい感じで時間が流れました(笑)。2日目にはもう取締役会に出て、「日本のビジネスをお前に任せる」と言われていたような気がします。直近の四半期決算が締まる2週間前にSAPジャパンにきたんですが、すでに今後の見通しを明確にしろと幹部に言われていましたからね。
最も時間を割いたのは、ユーザー企業とパートナーに1社でも多く会うことです。現場を回るのが自分のCEOとしてのスタイルですし、それはSAPジャパンでも変えるつもりはありません。就任後1か月でユーザー企業は100社、パートナーは30社訪問し、約1000人の方と名刺交換しました。人に会い徹底して話を聞き、その言葉を真摯に受け止め相手を知る。これこそがビジネス拡大の最大の戦略だと思っていますから。
──今、SAPのユーザーは何を考えているんでしょう。
イルグ 「カスタムメイドの閉じられたアプリを動作させる環境はもう終わりなのでしょうか?」と、よく聞かれた印象があります。日本の顧客は、オープンなITインフラに従来以上に関心を持っており、そのなかでパッケージや標準技術を強く意識しています。
──確かに、日本企業はカスタマイズソフトを活用する比率が世界に比べて高いですよね。運用やシステムを変更するためのコストに悩んでいるユーザーも多いようです。
イルグ 当たり前の業務、一般的な仕事はプロセスを標準化するのが一番で、ほかのやり方をするのは意味がないでしょう。例えば、銀行への入金・振込みは企業規模、業種・業界問わず一緒ですよね。ここを変えようとはしない。アプリも一緒です。一般的な業務は個別仕様というよりもパッケージを使ったほうがよい。
日本のユーザーはカスタマイズを必死にやってきましたが、それは変更管理するのがどれほど大変かを知らなかった面があったからとも言えると思います。過去2~3年で日本のユーザーの意識もかなり変わってきました。
──ユーザー企業はSAPに何を期待していますか。
イルグ とにかく、もっと深く関わって欲しいと。サポートやアドバイスなどで、さらに自分たちに入り込んで欲しいという要望を頂きました。
SAPジャパンとして、そのリクエストに応えるためにまずユーザーがソフトを使って何をしたいかを丁寧に聞き、理解する。そしてユーザーもソフトの稼働率を上げるために努力が必要であることを理解してもらう。そして、ともに情報を共有し、助け合うことが必要だと思います。
経営戦略は三本柱で立案する CS、協業強化、技術革新を
──顧客の声を踏まえたうえで、どんな経営計画を描きますか。
イルグ 三つの観点があります。一つ目はCS(顧客満足度)の向上。ユーザー企業にいかに喜んでもらうかに力を注ぎます。これは、「CSインプルーブメントチーム」とよぶ組織をつくり強化中です。このチームは社内でも中核的な位置を占めており、私に直接報告が上がってくるようになっています。ユーザー企業に呼ばれなくても、積極的にこちらからコンタクトし、不満や困っていること、要望を吸い上げる活動をさらに強化できればと思っています。
二つ目はアライアンス。SAPジャパンはパートナー企業との協業に非常に重きを置いている会社です。ただ、私の経験やノウハウでパートナーとのエンゲージメントをもっと強めることができるとも思っています。ユーザー企業、パートナー、そしてSAPジャパンの三者がもっと「Win─Win─Win」になれる関係を築けるはずです。
そして最後が、最も難しい分野になると思いますが、イノベーション=技術革新です。日本市場の特徴とユニークさ、そしてチャンスを見極めイノベーションを創出することにも力を注ぎたい。
──直近のビジネス拡大の観点から言えば、中堅・中小企業(SMB)に関心はありませんか。SAPジャパンの開拓余地がもっとも大きいマーケットかと思いますが。
イルグ 今マーケットを詳細に分析している最中ですが、ローエンドは非常に巨大な市場があると認識していますよ。ただ、一概に年商規模が小さいからローエンドとはいえない部分があり、ユーザー企業のサイズがこれぐらいだから、このアプローチを取るという単純な考えは持っていません。このエリアはパートナーが前面に立ってビジネス展開することが最良と考えており、SAPジャパンがそれを援護する形でマーケットにアプローチしようと考えています。
──SMB向けERPは国産勢が強い。
イルグ この業界にはさまざまな参入者が出てくる。ただ、そのような環境下でもSAPジャパンはデファクトスタンダード(事実上の業界標準)になる。究極的にはユビキタス社会のプラットフォームになりたいと思っています。
──イルグ社長のSAPジャパンでの最も大きなミッションは何ですか。
イルグ ユーザー企業が持つビジネスネットワークの変革で競争力を高め、生産性を向上させることです。少なくともユーザーの生産性を2倍に高めたい。生産性向上はとくに日本では急務なのです。高齢化社会になると生産性を高める必要がかなり出てくるでしょう。向上させないと、日本の能力は世界に遅れを取ってしまいますから。
My favorite ジャガールクルト(スイス)の腕時計。BEAシステムズ在籍時代、香港に赴任した時に購入した。全世界で500個しか生産されていない限定品だとか。「宝石のような存在であり、さまざまな情報が詰まっているビジネスツールでもある」と愛用している
眼光紙背 ~取材を終えて~
イルグ社長の経歴は実に多彩だ。国産コンピュータメーカーから映画会社、マスコミにミドルウェアおよびアプリベンダーまで、さまざまな業種の企業を渡り歩いてきた。複数の企業を経験している社長は数多いが、これだけ違う業界でキャリアを積んだトップは異例だろう。
そして今回、ステップアップの場として世界第3位のソフトメーカーであるERP最大手のSAPジャパンを選んだ。
インタビューでは終始、直近の施策や戦略を聞いても、中長期的な方向性や自身が持つ経営哲学を語ることが多かった。だが、短期的な結果も求められるはず。前社長がわずか9か月で退任した点もプレッシャーになるだろう。ERPの経験が浅いなか、どんな策を打つのか。まずは、拡大余地が大きいSMBを対象としたビジネスでの新施策が楽しみだ。(鈎)
プロフィール
ギャレット・イルグ
(ギャレット イルグ)1984年、三菱電機入社。その後、ロイター、ダウ・ジョーンズ、ウォルト・ディズニー、コロンビア・ピクチャーズを経て、99年に日本BEAシステムズに籍を移し代表取締役社長に就任。02年までトップを務める。その後米本社に移り、05年までシニアバイスプレジデント兼アジアパシフィック地域代表。05年、アドビシステムズに移籍し、代表取締役社長に就任。08年9月15日、SAPジャパン代表取締役社長兼CEOに就いた。
会社紹介
SAPジャパンは独SAPの日本法人として1992年10月に設立された。資本金は36億円で従業員数は約1500人。ERPの最大手メーカーとして、同社パッケージは大手から中堅・中小企業(SMB)向けまで幅広く取り揃えられ、対象顧客も広い。07年には米本社がBIツールベンダーの米ビジネスオブジェクツ(BO)を買収すると発表。ERPの枠組みを超えた品揃えにも動いている。
今年度(2008年12月期)の第3四半期まで(1-9月)の累計業績(US GAAPベース)は、売上高が前年同期比15%増の80億7900万ユーロ(約1兆98億7500万円)、営業利益は、同4%減の15億6600万ユーロ(約707億5000万円)、営業利益率は3.8ポイント下がり19.4%となった。