本気で叱り飛ばされる
──安達社長も、ずいぶん客先に足を運ばれたとうかがっています。 私は営業としてですが、客先には誰よりも多く通ってきたと自負しています。まあ、私が営業の第一線にいた時代と、今とでは、営業形態がずいぶんと様変わりしてしまいましたけどね。
──どういう意味ですか。 昔の話になりますが、私が駆け出しだった70年代は、営業スタイルも生活スタイルも大きく違っていたんです。当時はIBMの存在が絶対的で、客先に行くと電算室の入り口「IBM室」なんて書いてあることも珍しくありませんでした。注文を獲るということは、すなわちIBMをひっくり返すことで、リプレースが成功したときは本当にうれしかった。
当時はまだ個人情報保護の概念も薄かったので、客先の役員の住所なんかも簡単に調べられました。わからなくても通勤のルートから最寄り駅は見当がつく。今では考えられないかもしれませんが“夜討ち朝駆け”は必須で、でないと忙しいキーパーソンに合うことなんて不可能でした。最寄り駅から自宅までの道の途中で待つのですが、向こうの電信柱の影にはN社、反対側にはF社と、ライバル社の営業マンの姿をみるなんて日常茶飯事でしたね。
──その役員さんは、よく気分を害しませんでしたね 一度だけ失敗があるんです。夜討ち朝駆けといっても、相手との信頼関係があってこそ成り立つものです。私はまだ若かったこともあり、相手の入ってはならない個人のスペースのようなものに、まだロクに信頼関係も築かないうちに踏み込んでしまったのです。あのときは本気で叱り飛ばされました。
今だったら、それこそFacebookで“お友だち”になって、共通の話題、趣味を共有したりして信頼関係をつくっていくのでしょうけれど、ソーシャルメディアどころか、インターネットもモバイルも何もない時代。コンピュータを売る仕事なのに、100%アナログ営業でした。そんなことをやっているものだから、週の半分以上は終電に間に合わず、駅前のサウナで数時間仮眠して、朝駆けに出かける。梅田のサウナ「大東洋」には相当通い詰めましたよ(苦笑)
──当時とは仕事や生活スタイルもずいぶん変わりましたね。 でしょっ。これからはもっと変わります。もちろんITでできることはさらに増え、私たち情報サービス業への期待も高まります。ビジネスモデルや技術の変化適応をうまくこなし、顧客起点でありつづける限り、ニッセイコムがつかむチャンスは多いと確信しています。

‘客先には誰よりも多く通ってきた駅前のサウナで仮眠して、朝駆けに出かける’<“KEY PERSON”の愛用品>家族から贈られたグッズ 印鑑入れとして使っているジャケットの形をした陶器は息子さん、携帯用の靴べらは娘さん、桜の木でできたペン立ては愛妻からそれぞれ贈られた思い出の品々。「どんなブランド品よりも愛着がわく」と、目を細めながら話す。
眼光紙背 ~取材を終えて~
安達春雄社長が話してくれた“昭和の営業スタイル”は、時代をよく反映したエピソードだった。夜討ち朝駆けで平日の半分も家に帰らないのも、共働きがあたりまえの現代ではあり得ない。いや、朝の保育園の送り届けを担当すれば、夜討ちくらいはできるのか。それでも夜討ちをかけられる側からは、個人情報保護のあり方に疑問を呈されることになるに違いない。
スマートフォン片手にソーシャルメディアを駆使して、子どもを保育園に送り迎えしながら営業するスタイルを40年前は想像できなかった。今から40年後の2055年、おそらくそれ以上の大きな変化が起こるはずだ。この変化をいち早く察知し、いかに自社のビジネスにつなげていくのかで勝敗が決まる。安達社長は、こういうことを伝えたかったのだろう。(寶)
プロフィール
安達 春雄(あだち はるお)
1952年、京都府生まれ。71年、日立製作所入社。06年、産業・流通システム営業統括本部産業第二営業本部長。07年、日立システムアンドサービス(現日立ソリューションズ)関西営業本部長。10年、執行役員関西支社長。12年、常務執行役員関西支社長。15年6月29日、ニッセイコム取締役社長就任。
会社紹介
日立系SIerのニッセイコムは、機械式駐車設備や凍結乾燥機などを手がける日精のグループ会社。2014年度の年商は211億円、社員数は800人あまり。日立系、日産系の企業が集まる親睦会「春光懇話会」には、親会社の日精とともに名を連ねている。