環境が悪くても
「稼ぎ方」は変えられる
――双日時代に経験された、事業構造の変化について教えていただけますか。
私が一番長く関わっていたのが、海の上で石油やガスを洋上で採掘・生産するエネルギー開発事業でした。油田の開発では、採掘設備を海に浮かべたり着底したりして、井戸を掘る。掘ってみて石油が出てきたら、今度はさらに生産設備を持ってくる。当社は、国内の重工メーカーが製造した採掘・生産設備の輸出を担っていました。1980年代前半まで、日本の設備は国際的にも競争力があったんです。ところが、85年のプラザ合意で急激な円高になり、日本の輸出産業は大変な打撃を受けました。設備の輸出も他のアジア諸国に取って代わられてしまい、事業自体が消滅するかもしれないという瀬戸際に立たされました。
しかし、世界のエネルギー需要は伸びており、そこにはとてつもなく大きな市場があるわけです。当時の私は一課員に過ぎませんでしたが、そのときの上司たちは、エネルギー開発の事業を、輸出ビジネスから金融ビジネスに転換することで生き残りを図りました。簡単に言うと、石油は埋まっているけど、設備を買う資金や生産技術がない新興国にお金を貸し、アジアの重工メーカーの設備を買ってもらう。そして、出てきた石油が売れれば、お金を回収できるという仕組みです。この事業は非常に順調に推移しました。
――“貸し倒れ”になるリスクをはらみながらも、石油さえ出れば大きな収益が期待できるというわけですね。
ところが、危機はまた来るんです。私がその事業の管理職になってから、「商社の事業としては負債倍率が高すぎる」と指摘されるようになり、外部からの会社の格付けも引き下げられました。財務を大幅に改善せよとの号令が社内に下り、収益を上げていたにもかかわらず、金融ビジネスはダメということになりました。そこで、今度はエネルギー事業の軸足を、世界の石油会社に出資したり、鉱区の権益を取得したりする投資ビジネスに切り替えたのです。幸いなことに、リーマンショック前まで原油価格が大きく上昇したことで、結果的に金融よりも小さなお金で、十分な収益を得ることができました。
最初のピンチだったプラザ合意・円高は、外部の環境変化です。次の「金融はもうやるな」という環境変化は、社内事情でした。こういった社内外の大きな変化が、たまたま私がエネルギー事業に関わっていた間に訪れたわけですが、こういう変化は、このIT業界でもしょっちゅう起きると思います。それに対して、収益構造をいかに変えていくか。目の前の市場環境が厳しくても、例えば商流の中で上流や下流へ事業のフィールドを変えてみることで、それまで積み重ねた知識や経験が新たなビジネスチャンスにつながるかもしれないのです。
――金融業や石油会社経営の経験はなくても、石油のことはよく知っていたので、どうやったら儲かるかを考え、チャレンジできたと。
そうです。しかし、それまでやったことがないビジネスをするわけですから、金融の仕組み・規制から、日本法と米国各州の法律や税制の違い、英文契約書に盛り込む事項など、とにかくすごく勉強しましたよ。1カ月以上、会社で一日中ずっと本を読んでいるなんて時期もありました。リスクを取れ、とは言っても、安易なチャレンジをするわけにはいきませんからね。
ただ、環境がこれだけ急激に変化する時代ですので、リスクを取るのが難しいのは確かです。それでも、やってみないとわからないことは、まずやってみようという方向に持っていくことが大事です。例えば、今までだったら「リスクが大きいのでできない」と言っていたところを、「まずは半分の予算でできるところまでやってみる」にする。半分やってみて、うまくいったらそのときに資金を追加すればいい。だめな理由を並べていた「No, because...」ではなく、この条件をクリアできればやれるという「Yes, but...」に、会社の文化を変えていきたい。
――今ほとんどのITベンダーが、IoTやAIを活用したビジネスの変革を掲げています。日商エレクトロニクスならではの強みをどのように発揮されますか。
デジタルトランフォーメーション(DX)が起ころうという時代に、まさにふさわしいポジションにいるのが当社だと考えています。われわれの親会社はIT企業ではなく、あらゆる業界とお付き合いのある総合商社です。社内にも「親会社が商社であることをもっと活用しよう」と言っていますが、業界横断的に新しいITを提案していくDXの時代、幅広い業界に顧客基盤も情報網も持っている、このネットワークを活用しない手はありません。
私自身、これまでいろいろなチャレンジをさせてもらいました。石油や造船のような重工業だけでなく、食料品業界の経験もあります。マグロやエビの養殖までやりましたよ。稼ぎもしましたが、失敗もありました。失敗しないと人は育ちません。変化しないとチャンスは生まれないのに、リスクを取るのは許さないということは、「変化をするな」という指示と同じですからね。今やっている案件を頑張る、昔からやっていることを踏ん張って続けていく、それだけではいけないよということを、いろいろな形で社内に伝えていきたいと考えています。
Favorite Goods
ニューヨークから離任する際、エグゼクティブ・コーチがプレゼントしてくれたマネークリップをいつも持ち歩いている。付いている飾りはニューヨーク地下鉄のトークン。見る度に、「カタリストになれ。まず話を聞け」というコーチの教えを思い出す。
眼光紙背 ~取材を終えて~
リーダーは“触媒”を目指せ
双日の米州総支配人としてニューヨークに勤務していた際、ビジネスリーダーとしての能力を高めてくれるエグゼクティブ・コーチがついていた。コーチによると、マネージャーには三つの段階がある。第一段階は、あらゆる問いに対して答えを持っている「エキスパート」。第二段階は、目標達成に向けた戦略を立案しそれを完遂する「アチーバー」。
そして、寺西清一社長が目指せと言われたのは、自ら手を動かす代わりに、周囲にポジティブな影響を与え、組織全体を成功へと導く「カタリスト(触媒)」。これが最も高位のマネージャーだという。
「『これをやってくれ』『こうしたらいい』と言いたくなるが、すべてを伝えるのではなく、社員自身が答えを見つけられるようにしたい」。コーチからは、カタリストを目指すには「まず聞くことが大事」だと説かれた。しかし、優秀なプレイヤーだった人ほど、カタリストになるのは難しい。「今日もつい細かく指示を出してしまった。また、カタリストから遠のいた」と苦笑する。
プロフィール
寺西清一
(てらにし しんいち)
1955年生まれ。78年、神戸商科大学商経学部(現・兵庫県立大学)を卒業し、日商岩井に入社。2003年にエネルギー事業部長、06年に双日の執行役員経営企画部長、08年に常務執行役員、12年に米州総支配人、16年に顧問に就任したほか、ヤマザキナビスコ(現・ヤマザキビスケット)、JALUX、アシックスなどの役員も務めた。今年6月より現職。
会社紹介
1969年、日商岩井(現・双日)の100%出資で専門商社として設立。ネットワークや仮想化基盤などITインフラ領域に強みをもつ。2018年、双日システムズ(旧・ニチメンコンピュータシステムズ)と合併し、双日グループのIT中核会社となっている。19年3月期の連結売上高は398億円。19年3月末時点の連結従業員数は1007人。