「キャズムの壁を越えるところに手が掛かった」。Box Japanの古市克典社長は、ユーザー企業の急拡大が続く自社の現状をこう表現する。「キャズムの壁」とは、製品が劇的な普及へ至るかどうかの分岐点だ。その実現に向け、官公庁や自治体、銀行、病院といった新たな領域に狙いを定め、パートナー連携にも磨きをかける構えだ。ファイル管理・活用のあり方を一変させる「コンテンツクラウド」の概念は、分厚い壁を打ち破れるだろうか。
(取材・文/藤岡 堯 写真/大星直輝)
SaaSの利用拡大で注目高まる
──近年のBoxは「コンテンツクラウド」の概念のもとにサービスを展開しています。耳馴染みのない言葉ですが、どういった思いが込められていますか。
アプリケーションとコンテンツ(ファイル)を切り離し、コンテンツ部分をクラウドで管理しようという考え方です。コンテンツはさまざまなアプリで作られ、いろいろな場所で保管されます。作成から共有、保管に至るまでの過程で、コンテンツは多くの人の手、デバイスの間を変遷していきますが、その間に、どこかで外部に漏れるかもしれませんし、紛失することもありえます。コンテンツのライフサイクルを全てBoxで管理しましょう、という発想です。
Box上でコンテンツを作れますし、もちろん共有はお手のものです。そして容量は無制限ですからアーカイブにも適しています。Boxがもともと有する機能だけでなく、外部のアプリケーションとも連携可能です。Boxが全てやり遂げますから、信頼してください、任せてください、というメッセージですね。
──そういったメッセージを発信する中で、昨年度(21年2月~22年1月)の業績は好調だったと聞いています。どのように受け止めていますか。
昨年度のARR(年間経常収益)は、前年度比で約6割増でした。SaaSの導入に慎重だったお客様、具体的には官公庁や自治体、中小企業へ浸透し始めた感覚があります。また、東京以外の地域のお客様も増えてきました。もしかしたら「キャズムの壁」を越えるところに手が掛かったのかなという気がしています。
リモートワークの普及によって、SaaSの利用が拡大しました。Boxは情報を共有して有効活用できるだけでなく、セキュリティも万全です。さまざまな人がSaaSを使っていく中で、Boxへの注目度が高まっていったのでしょう。銀行や病院も含めた“慎重派”のお客様の動きは、本格化していく手応えがあります。これらの業界のお客様にクラウドサービスの便利さをぜひ理解していただきたい。Boxの米国における一番大きなお客様は金融機関、その次は官公庁です。それを踏まえると、日本はIT活用が遅れているのでしょう。これはもったいない。
パートナーはポストセールスにも注力を
──それらの業界を開拓するため、パートナーに期待することはありますか。
官公庁、自治体、銀行、病院といった業界の開拓では、パートナーなしには一歩も前に進めません。拠点のある東京などの地域以外をカバーしていくためにも連携が欠かせません。
パートナーにはSaaSビジネスで業績を挙げていただきたい。ただ、そのためには、少し意識を変えることが求められます。これまではプリセールスに注力しがちでしたが、それと同じくらいの力をポストセールスにも注いでほしい。
私たちの業界で「カスタマーサクセスマネージャー」(CSM)と呼んでいますが、(SaaSを)使い始めたお客様をしっかりケアして、業界他社のベストプラクティスなどを(顧客と)共有するチームがあります。この活動こそがクラウドサービスビジネスを伸ばすためにとても重要です。
これまでのITシステムは売り切りパターンで、プリセールスでどかんと売ったら「一丁上がり」みたいな感じでしたが、今は違います。製品を入れた後に満足度を高め、さらに広げていく。「ランド・アンド・エキスパンド」と言いますが、エキスパンドの主役はCSM、ポストセールスなのです。ここを強化していただけると嬉しいです。
加えて、現在はさまざまなクラウドサービスが立ち上がっています。便利ですが、使うお客様は複数のベンダーと付き合うことになり、大変です。パートナーが各ベンダーの窓口になったり、運用手順を統一したりする役割を果たしていただけると、私たちとのwin-winな関係が、より強固になると思っています。
日本法人は「組織が素晴らしい」
一つお伝えしたいのが、日本法人の組織の素晴らしさです。あってはならないことですが、システムにトラブルが起きることもあります。ですが、起きた後の対応について「パートナーに丸投げすることは一切なく、ベンダーが責任をもって対応してくれる」とお褒めの言葉をいただきます。手前味噌で恐縮ですが、複数の外資系ベンダーを経験した中で、私も素晴らしいと感じています。
また、電子署名サービスの「Box Sign」のように、日本法人が国内市場のニーズを本社に伝え、機能の開発を加速させた例もあります。日本のベンダーとも連携ソリューションをいくつも作っています。その結果として、日本の売上比率が全世界の18%になっていますし、受注高で言えばもっと大きいです。
──そのような企業風土はご自身の思いで築き上げてきたのですか。
そういうわけではありません。ただ、お願いしているのは「当事者意識」と「学ぶ意識」です。
外資系法人では、往々にして「本社がこんなこと言ってきたからやりました」という人がいます。その言葉の真意は「だから私の責任ではありません」ということです。ヘッドクォーターが海の向こうにあるとコミュニケーションが難しく、指示をしっかりと聞く英語の上手い人がどんどんと昇進していくということもあります。
私はそのような組織には絶対したくなかった。だから「当事者意識」をもって、自分たちで考えようぜ、と。日本の市場、事業について一番わかっているのは私たちなのですから。本社もいろいろと言いますが、彼らは本社のやり方を日本にさせることが目的ではなく、業績を上げてほしいのです。
そこで、いい部分は取り入れつつ「ここは日本の事業風土、市場環境に合わないから、こうやったほうがいいと思う」と逆提案するようにしました。最初は本社側もうるさいと感じていたかもしれませんが、やってみたらほとんどうまくいきます。いつもうまくいけば日本のメンバーは自信を持ちますよね。一方で米国側も「日本はすごい」と感じて、信頼関係が生まれます。これが噛み合って、売り上げや受注につながり、さらに日本への信頼が高まるムードが広がるわけです。
もう一つの「学ぶ意識」についてですが、IT業界は技術や市場動向などをしっかり身につけていけば、どんどんとジョブオポチュニティが広がります。当社の中で活躍してほしいですが、とどまる必要はなくて、とにかくここにいる間に知識を積み上げてくださいと言っています。ただ、勉強は一人ですると辛いし、飽きるので、後押しできる環境をつくりたい。「普通に仕事していたら、いろいろ学習できた」という組織になればいいなと思っています。私は基本的には個人が成長してくれればいいので、自分の成長のために何が役立つかを考え、会社を使ってくれと考えています。
国内のITサービス業界を盛り上げたい
──ご自身による登記から始まった日本法人は今夏、設立10年目に入ります。事業も組織も順調に成長していますが、これから先の姿はどう描いていますか。
日本のSaaS業界には、シリコンバレー並みとは言わないまでも、それに近い形で盛りがってほしい。これからはそのチャンスがあるのではと感じています。
ITサービスやSaaSは今、どんどんと社会インフラのほうへ浸透しています。例えば、遠隔医療や自動操縦などがありますが、これらの領域ではトラブルは許されず、確実に成功させなければなりません。そのためにはソフトウェアだけでなく、ハードウェアとの擦り合わせも大事になってきます。
そして、ソフト、ハードがどちらも強い国はそれほど存在しません。日本はソフトもハードも両方強く、市場規模もそこそこ大きい。ITサービスをぐわっと盛り上げるチャンスではないでしょうか。「来たぞ、日本の時代!」という感じです。
なんとか当社としても、そういったところに貢献したい。どうすればいいかは、まだわかりませんが、それができたらもう悔いなし、というか、もういつ引退してもよし、みたいな、そんな気がしています。
眼光紙背 ~取材を終えて~
日本法人を登記する前、製品の導入を直販と間接販売のどちらで進めるか迷っていた。SaaS業界で先を進んでいた企業には「SaaSは直販。お客様と直に関係を築くべきだ」とも言われたが、それでもパートナービジネスへかじを切った。
選択の理由はいくつかある。本気で支えると言ってくれたSIerの存在や、ユーザー企業への売り込みやすさなど、さまざまな面から判断したが、「日本のSaaS業界を盛り上げたい」という個人的な思いも背中を押したという。
外資系SaaSを取り扱う企業として、最も進んでいるシリコンバレーの技術や運用方法などを日本のベンダーやSIerと共有するため、協業の道を進んでいる。
「直販をやっていたら、自分たちが儲かっておしまい。協業でノウハウや技術が共有できれば、いずれ日本発のイケてるSaaSが起きてくる。それを実現したい」
それから早9年。狙いは当たり、会社は大きく成長した。日本のSaaS業界が盛り上がる日も、そう遠くはないと信じている。
プロフィール
古市克典
(ふるいち かつのり)
1961年生まれ、香川県出身。京都大学経済学部卒。1985年、日本電信電話(NTT)入社。システムエンジニア、経営企画、人事、財務、営業、マーケティングなどを担当。PRTMマネジメントコンサルティング(現PwCコンサルティング)などを経て、2008年に日本ベリサイン(現シマンテック=ブロードコムのセキュリティ製品事業のブランド名)代表取締役社長。13年8月から現職。18年11月からチームスピリット社外取締役。21年6月から寺岡製作所社外取締役を兼務。
会社紹介
【Box Japan】クラウド型コンテンツ管理プラットフォーム「Box」を提供する米ボックスの日本法人。国内の顧客企業数は1万1000社を超える。 FY(会計年度)2022(21年2月~22年1月)のグローバルでの売上高約8億7000万ドルのうち、Box Japanの売り上げが占める比率は18%となっている。