大航海時代

<大航海時代>第22篇●新しき勇者たちへ 第33話 不易流行

2002/05/20 16:18

週刊BCN 2002年05月20日vol.941掲載

 昔、米国で見た映画で、宇宙から地球にやってきた生物が、地球の美男美女を見て、「なんとまぁ、醜い連中なのだ」とお互いささやき合うところがあった。ところがまぁ、その連中の姿ときたら、クラゲのようなスタイルで、顔はタコそっくりであった。ここまでいくと、基本的な価値観が全く違うということになるが、なんとなく一緒に地球に住んでいる連中、もっと厳密に言えば、一緒に居住している社会(例えば日本)では、それなりの共通した価値観があることは間違いない。

 このあたりの事情を、松尾芭蕉は「不易流行」といった。「不易」とは永遠に変わらないという意味だ。「流行」とはその時代、時代ではやるけれども時とともにすたれていくものを意味する。あらゆるものは流転するが、そのなかで不変なものがある、というのである。彼に言わせれば、流転する現世のなかで不変のものを見つけるのが芸術だ、と言うのである。小学生の頃、俳句に凝っている先生がいて、皆に盛んに作らせた。その最初に芭蕉の話を大いにして「古池や蛙飛び込む水の音」なる句を激賞した。「静かな、静かな山の中の古い池に、蛙が一匹、ドボンと飛び込む。どうだ、あたりの深い深い静けさが目に見えるようだ。こんなのが俳句の極意、芭蕉の真髄と言うのだ」と口から泡を飛ばして力説した。

 先生の熱意にもかかわらず、子供心に、「あんまり良い句ではないな」と思ったものだ。いまでもそう思っている。蛙がドボン、なんていかにもそらぞらしいではないか。あの句を不易流行の模範みたいに言ってもらってはちょっと困る。じゃ、どんなのがいいのか、と言うと、「荒海や、佐渡に横たう天の川」なんてのはどうかね。これなんか、まさに雄大な風景を描き切っているように思うのだけど。まぁ、不易流行も苦労するねぇ。そんなもんだよ。(ソウル明洞にて)
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