情報処理学会が提唱

ようやく「歴史」に関心が?

 情報処理学会が経済産業省に「コンピュータ博物館」の設立を提言したのは今年2月だった。一昨年の6月から10月にかけて、〝日本に電子計算機が初めて輸入されて50年〟を記念したイベントが行われたのがきっかけ。同学会は「このまま放置すれば、日本の情報化を担ってきた貴重な機器やプログラムが散逸してしまう」と危機感を訴える。ITの世界は常に「新しいもの」を追い求める。米欧では「だからこそ歴史の保存と継承が重要」という認識がある。世界最先端のIT社会の実現を目指す国家戦略のなかで、同学会の提案は、「わが国のITの歴史」に関心が高まるきっかけになるだろうか。(中尾英二(評論家)●取材/文)

■機器の散逸・廃棄を懸念

 情報処理学会が経済産業省に提出したのは2月2日だった。経済産業省大臣官房宛の「コンピュータ博物館設立の提言」がそれだ。

 提言では、日本に真空管式の商用電子計算機が初めて輸入されてから50年が経過したことに触れ、

(1)日本における初期のコンピュータ研究・開発者が高齢化または物故し、当時の記録が残されないこと

(2)コンピュータメーカーが保存に努めているが、保管スペースや維持管理費の関係で歴史的に貴重な機器が散逸・廃棄される懸念があること

(3)米英独などと比べ、日本のコンピュータ産業は文化の域に達していない

──等の状況を指摘している。

 そのうえで同学会は、

 「今始めなければ、コンピュータ博物館の資料集めはますます困難になり、博物館をつくることは絶望的になる」

 と危機感を訴えたのだ。

■初代電政課長・平松氏もエール

 JR大分駅から歩いて10分ほどの繁華街にあるビルの2階。元大分県知事・平松守彦氏を訪ねた。IT業界では、通産省の初代電子政策課長として、国産コンピュータ産業の育成・振興に取り組んだことで知られる。

 同氏の第一声は、「そのような提案がなされたことを心から歓迎したい」だった。「すぐに行動を起こさなければ、この国の情報産業は、自身の生い立ちを確認することができなくなってしまう」というのだ。

 「私が課長補佐だった時代、1960年代の中頃だから、もう50年近く昔だが、日本電子工業振興協会の中にTOSBAC、NEAC、HITACといった国産の電子式計算機を展示・作動させていた」そうだ。

 平松氏のお膝元・大分県は、「わが国計算機産業の発祥地」でもある。明治の中期にさかのぼるが、大分県岩屋村(現・福岡県豊前市)の庄屋の家に生まれた矢頭良一(「亮一」とも。1871─1908年)が考案した「ヤズ・パテント・アリスモメートル」こそ、量産された国産計算機の第1号だった。

 「今はソフトウェアとネットワークを無視できない。広範な『IT』を視野に入れてプロジェクトを進めるべきだろう」──83歳とは思えない柔軟な発想で、平松氏は構想を語ってくれた。

 「コンピュータや情報処理、ソフトウェア、ネットワークにかかわるさまざまな書籍、報告書、技術解説書を収集し、体系化し、広く閲覧に供する施設の設置を望みたい」

 「パンチカードでプログラムを打ち込んでいた時代を再現したり、代表的なパソコン用ソフトの変遷を、現物を動かして見せるのも一案」

 「かつてのパソコン通信のモデム通信を再現して見せるのもいい。ITサービス産業を〝業〟として成り立たせるために尽力した先達を顕彰するコーナーも検討されていい」

 「真空管から始まったコンピュータから現在のパソコン、インターネットまで、見て触れる展示をすることは大いに意義がある」

 博物館設立の提言に諸手をあげて賛意を示す。

 コンピュータ博物館を設立しようという動きのきっかけとなったのは、2005年の6月、日本ユニシスが東京・六本木のホテルで開催したユーザー会だった。

 例年は最新のテーマを掲げるのだが、その年は「コンピュータ導入50年」と銘打った。1955年4月、世界最初の商用電子計算機「UNIVAC120」が船便で横浜港に到着、東京・日本橋の野村證券本社と茅場町の東京証券取引所に納入されたことを記念したイベントだった。

 圧巻だったのは、野村證券が保存していた当時の実機の公開展示。一部のカバーが外され、中に並んだ真空管の列が見えるようになっていた。本体の左側面には電話のダイヤルが付いていて、50年前の当時、すでにデータ通信が可能だったことを示す。

 1955年、野村證券の電算部員だった戸田保一氏、立教大学を出て日本レミントン・ユニバック(現日本ユニシスの前身)に入社したばかりだった佐藤雄二朗氏(現アルゴ21ファウンダー)らが、UNIVAC120の前で感慨深げな表情で記念写真に収まった。「これを常設展示する場がほしいですよね」と語り合っていた。それが今回の提言のきっかけになった。

■産業・社会を担う証に

 情報処理学会はホームページでバーチャルなコンピュータミュージアムを開設し、『パイオニア紹介』で先人たちの業績を紹介している。学会という性格上、学術分野や研究開発分野に限られているのはやむを得ない。

 明治・大正期の手廻し式計算装置や亀の甲穿孔機、戦後間もなくのETLやFUJICは国立科学博物館に保存されているが、1980年代まで使われたカードパンチマシンやソーター、パソコンの歴史を開いた4ビットプロセッサや8ビットのマイコンキット「TK 80」(日本電気)、日本語ワープロの1号機「JWP」(東芝)などは、かえって廃棄されやすい。

情報処理学会ばかりでなく、一昨年は情報処理推進機構が情報政策史をまとめるなど、「歴史」への関心が高まりつつある。「コンピュータ博物館」が公共財として世の中に認知され、ひいては日本の情報産業が文化の一翼を担ってきた証になる。

ズームアップ
遺産を大切にする米国・欧州
 

  米国にはスミソニアン博物館(ワシントンD・C)、インテルミュージアム(カリフォルニア州サンタクララ)、コンピュータ歴史館(同マウンテンビュー)、米国コンピュータ博物館(モンタナ州ボーズマン)、欧州ではイギリス、ドイツなどにコンピュータ専門の展示施設があり、フランスでは18世紀の計算機を復元する学会まである。
 それに比べ、日本では科学博物館が年に1─2回、倉庫に保管してある古いマシンを期間限定で展示する程度だ。例えば、コンカレントCP/Mの第1世代機から最新のVista搭載機までずらりと並べ、ジャストシステムの「一太郎」を動かして、小・中学生に操作させることなどはとうてい無理。カタカタ・ピ~とモデムで接続するパソコン通信から、ブラウザで常時接続のブロードバンドまでを体験した子どもたちが、技術の進歩に目を見張る。その感動が将来、IT産業を目指す人材の育成につながる、という声もある。