ビッグデータ編
汎用性が高いスポーツ×ITの利用例 他の業界にも横展開
「野村ID野球」という懐かしい響きを読者の皆さんは覚えておられるだろうか。IDとは「Important Data」の略で、野村克也監督の下、古田敦也選手らが活躍した1990年代のヤクルトスワローズは、統計データを駆使して、チームづくりや作戦の立案をしようというコンセプトを掲げ、黄金期を築いた。このように、スポーツで勝つためにデータを活用するという手法は、以前から存在していたわけだが、2014年のサッカーFIFAブラジルW杯は、それがいまや別次元といえるほどに洗練・高度化され、最先端のビッグデータ活用領域になっていることを広く知らしめた。優勝したドイツ代表の快進撃を支えたのは、独SAPのテクノロジー。SAPは、「スポーツ」にIT市場の未来をみている。(取材・文/本多和幸)
●ドイツ代表圧勝の衝撃 
SAPジャパン
馬場 渉
バイスプレジデント
チーフイノベーション
オフィサー SAPジャパンは、2014年7月、日本のスポーツビジネス向けIT市場に本格参入することを発表した。さまざまなソリューション群があるなかで、主軸に据えたのは、「ビッグデータ」だ。文字通り、ビッグデータを活用して選手やチームを強くしたり、チームや協会がファンを拡大して、ビジネス上の成果を挙げるためのITソリューションを提供している。
ちょうどこの発表の直前に、サッカーのFIFAブラジルW杯準決勝で、ドイツがブラジルを7対1の大差で破り、圧倒的な強さをみせつけた。最終的には優勝を勝ち取ったわけだが、ドイツサッカー連盟はSAPと共同で、サッカー向けのビッグデータ分析システム「SAP Match Insights」を開発し、これを活用してチームの強化を図ったため、SAPソリューションの効果に大きな説得力をもたせるかたちになった。
サッカー強豪国でありながら、90年代中盤以降は停滞が続いたドイツ。自国開催の2006年W杯で3位に終わった後に代表監督に就任したヨアヒム・レーヴ氏は、よりシンプル、スピーディなパスサッカーを志向し、強豪復活を目指した。SAPはこれをITで支援したわけだ。例えば、シンプルでスピーディなボール回しには、パスを受ける選手が、相手チームの状況をみつつ、最適な場所にあらかじめ動かなければならないし、守備ではその反対の分析が必要になる。同社によれば、トラッキングカメラなどを通じて得た膨大な情報を分析してその解を導きだそうとすると「数兆通りの計算が必要になる」が、同社のインメモリデータベース「SAP HANA」をプラットフォームにすることで分析を高速化し、試合中や練習中にもリアルタイムでデータを活用できるようになった。
SAPジャパンのスポーツビジネス向け事業の責任者である馬場渉・バイスプレジデント(VP)・チーフイノベーションオフィサーは、「この1年、いくつかの日本代表チーム、リーグ、クラブチーム、球団、アスリート個人、関連の大学などとプロジェクトを立ち上げて、想像を超える進捗があった。W杯効果もあって、とくにサッカー関係の案件は増えた」と手応えを語る。
グローバルでは、横浜F・マリノス、マンチェスター・シティFC、ニューヨーク・シティFC、メルボルン・シティFCという四つのサッカークラブを経営するシティ・フットボール・グループとパートナーシップを結んでいる。事業運営効率の向上や、ファンサービスの充実による顧客拡大、チームの強化や選手の育成など、クラブ運営全体をグローバルとローカルのバランスを取りながらデータドリブンなものに変えていくビッグプロジェクトだ。
一方で、元サッカー日本代表監督の岡田武史氏がオーナーを務めるFC今治のような、小規模なクラブとも共同でプロジェクトを進めている。現在は、4部リーグ相当の四国リーグ所属だが、10年以内にJ1優勝、さらには日本代表選手を5人輩出するという目標に向け、ビッグデータを活用してトレーニング、育成の効果的なメソッドを構築していく取り組みだ。「規模は関係なく、変わりたいという志をもっている人たちをSAPは支援していく」(馬場VP)という。
●直接の対価はもらわない 現時点で日本で需要があるのは、Match Insightsの流れを汲み、試合や練習で取得したビッグデータをもとに、トレーニング内容や戦術立案の判断材料となる情報を提供するソリューション「Team/Player Performance」だという。ある日本代表チームは、相手のプレーパターンをコーチ陣の予測の3倍の精度で当てられるようになったそうで、現場でも導入効果に対する評価が高まっている。一方で、欧米に比べてスポーツビジネスの規模が日本はまだ小さいため、ビジネスオペレーションの効率向上やビジネスモデルの変革のためのソリューションの需要が本格化するのは、これからだとみている。
ただし、スポーツビジネス市場では、一般の企業向けITのように、ソリューションを提供して、その対価をユーザーから受け取るわけではない。基本的には、製品、サービスのプロバイダ側がユーザーにお金を払って使ってもらう。スポーツ用具メーカーなどのスポンサーシップとほぼ同じかたちだ。しかし、「広告としての効果を否定はしないが、われわれのビジネスの形態からいっても、それが主目的にはなり得ない」(馬場VP)という。

HANAにより、試合や練習で得られる膨大なデータをリアルタイムに活用できるようになった では、SAPが直接の利益を生まないスポーツビジネス市場に、広告効果をそれほど重視していないにもかかわらず注力する理由は何なのか。馬場VPは、「スポーツの世界の住人は勝ちに飢えていて、効果がありそうなイノベーションはすぐに採用しようというスピード感がある。だから、極めて革新的なテクノロジーの利用例が、一般の企業の論理とは違ったかたちで生まれやすい。そして、われわれのようにスポーツだけでなくいろいろな産業向けにビジネスをしている会社からみると、スポーツでのITの利用例は極めて汎用性が高いことに気づく。つまり、スポーツ業界では真水で儲からなくても、他の業界に導入ストーリーを横展開することで、先端ソリューションの普及を強く後押しできる」と説明する。だからこそ、SAPジャパンは、SAPのテクノロジーを使いたいというユーザーがいれば、「変革への志」を審査したうえで、共同でプロジェクトを開始するというやり方を採っている。単純なスポンサーシップとは、一線を画しているわけだ。さらに、「スポーツの現場では、使い勝手が悪いものは絶対に使わない。強烈なユーザビリティとシンプルさ、利用者視点が重要で、これは企業向けITにも強く求められていること」と、ITベンダー側が鍛えられることも多いという。
つまりSAPは、スポーツビジネス向け事業を、製品開発や先進ユースケース構築のための投資と位置づけている。総合ITベンダーとしてのビジネスを加速させたい同社にとって、スポーツが一般企業向けのビジネスにおけるブレークスルーを本当にもたらしてくれるのか、今後の推移を注視したい。
[次のページ]